最高学府である東京大学を擁し、日本を代表する文教地区として知られている文京区。明治時代、森鴎外や夏目漱石などの文筆家が暮らしたのもこの地でした。
そのような背景から、文京区には高等教育を求めて転入する住民や、自身が教育関係者や研究者であるという住民が多く、区民の学歴や社会的地位は高い水準にあると言われます。また、文京区は、犯罪発生件数の少なさなどから各社の23区の「治安の良さ」に関連するランキングで1位に上がる事が多いですが、これは文教地区で繁華街が少ないことに加え、この「区民性」が大きな理由になっていると考えられます。
暮らしの安心感、文教の薫り、また、下町情緒や落ち着いた雰囲気のあるエリアも多く、住みたい区としても人気の区です。面積も人口も小規模な区ですが、暮らす魅力がつまった場所と言えるでしょう。
また、区の南側は「東京ドーム」を中心とした国民的レジャーエリア、西部は「谷根千」と呼ばれる古い街並みが残るエリアとなっており、散策やレジャーなどで多くの観光客が訪れる場所となっています。
西片から白山方面
東京大学
■1 近世以前の文京区
それでは、文京区の歴史について紐解いていきましょう。
文京区は大部分が「武蔵野台地」という台地上にあります。縄文時代以前、現在の東京大学付近に海岸線があり、根津や千駄木などは海でした。そのため、この付近には貝塚や縄文・弥生時代の遺構が多数見つかっており、本郷弥生で見つかった土器は「弥生時代」の語源となっています。
平安時代から戦国時代にかけての文京区には農村が広がっており、大きな街はありませんでした。湯島郷、日頭郷(現在の小日向)などに小さな集落があったことが知られています。
「根津神社」は文京区でもっとも古い神社とされ、国の重要文化財に指定されています。創建は2世紀頃といわれ、海と陸との境目を意味する「津の根」から名付けられたという説が有力です。5世紀には、菅原道真を祀り学問の神様「湯島天神」としても広く知られている、「湯島天満宮」も創建されました。
根津神社
弥生式土器発掘ゆかりの地碑
■2 江戸時代の文京区
江戸時代に入り、文京区には大名屋敷が多く置かれました。加賀藩上屋敷(東京大学)、水戸藩上屋敷(後楽園)をはじめ、備後福山藩中屋敷(西片)、上総久留里藩下屋敷(椿山荘)、熊本藩細川家下屋敷(肥後細川庭園)などが代表的なものです。
江戸の拡大にともなって社寺周辺も栄えました。根津や白山には参拝者向けの商業地が発展し、徳川家ゆかりの寺として建てられた「伝通院」と「護国寺」の前には門前町が生まれました。中山道の開通とともに街道沿いの街も発展し、中山道と日光御成道の分岐点となる本郷、湯島天満宮がある湯島で街道商業が栄えました。
また、文化の成熟とともに娯楽的な要素をもつ日本庭園が各地で造られ、水戸藩屋敷内に「後楽園」、加賀藩屋敷跡に「六義園」、徳川綱吉御殿跡に「小石川御薬園」が誕生しました。
江戸時代の文京区には江戸の生活を支える重要インフラもありました。区の南端を流れる神田川は、現在の「椿山荘」下あたりで上水を分岐し、ほぼ水平の状態で江戸橋、水道町と流れ下り、後楽園の南で本流である神田川の上を渡って江戸市中に導水されていました。現在も残る「関口」の地名は、その分岐点の名残です。
文教地区としての礎も江戸後期に形成されました。湯島にあった「昌平坂学問所」は、もともと儒学者として徳川将軍家に仕えた林羅山を祖とする林家の家塾でしたが、江戸時代後期(1787~1793年)に行われた「寛政の改革」によって幕府の官立学校となりました。
「水戸候後楽園略図」の写し享保年間以降 国立国会図書館蔵
神田川と椿山荘
■3 明治期~戦前期の文京区
明治維新で東京府に15区6郡が置かれることになり、1878年に文京区の前身となる、小石川区、本郷区が誕生しました。
この時代には文教エリアとしての大きな進化がありました。「昌平坂学問所」は廃止され、洋学教育所だった「開成所(開成学校、東京開成学校)」と「医学所(医学校、東京医学校)」が最高学府としての機能を引き継ぎました(そのため、「東京大学」はこの2者と昌平坂学問所の3つを祖としています)。「東京大学」は加賀藩屋敷跡に1877年に「官立東京大学」として設置され、現在に至るまで日本の最高学府であり続けています。
いっぽう、廃止された昌平坂学問所の跡地には「師範学校」と「女子師範学校」が設立されました。これはのちの「筑波大学」、「お茶の水女子大学」の起源となります。同じころ、文京区は多くの学校が生まれ、学問の地として大きく進歩していきました。
また、明治時代には夏目漱石、森鴎外など東京大学ゆかりの文豪が区内に暮らし、互いに切磋琢磨しました。樋口一葉、川端康成、正岡子規、小泉八雲、坪内逍遥、石川啄木らもこの付近に暮らしました。また、印刷技術の普及にともない印刷・出版産業も区内で盛んとなり、千駄木に生まれて音羽に移転した「講談社」をはじめ、多くの出版社が文京区に集まりました。水運や工業用水に恵まれた神田川沿いの水道町付近には、印刷工場も多く生まれました。
しかし大正時代、関東大震災で文京区は大きな被害を受け、多くの建物が焼失してしまいます。さらに1945年、東京大空襲でも、特に文京区南部で大きな被害を受けました。谷根千や東京大学周辺は被害を免れ、現在も戦前の建物がよく残されています。
湯島聖堂
猫の家跡
■4 戦後から現在まで
終戦後の1947年、東京都の区部が22区に改編された際に、小石川区と本郷区が合併、現在の文京区が誕生します。
軍関連施設があった後楽園は東京都の公園として開放され、隣の後楽園球場では、終戦直後の1946年に野球の試合が再開されました。1949年には球場の隣に後楽園競輪場も開業し、競輪において全国有数の売上を誇るほどにぎわいました。
1972年に後楽園競輪場は廃止となり、競輪場の跡地には1988年、日本初の室内野球場として「東京ドーム」が開業。現在に至るまで、「読売ジャイアンツ」の本拠地となっています。ドームの完成後に後楽園球場は取り壊され、跡地には「東京ドームホテル」などが造られました。
また、近年は住宅地としての人気の高まりを受け、各地でマンション開発が行われています。中でも大規模だったのは、2021年から22年にかけて竣工した「文京ガーデン」で、40階建てのマンションをはじめ3棟のビルが建てられ、文京区の新たなランドマークとなりました。今後は後楽二丁目地区の開発も予定されています。
いっぽう、空襲を免れた谷根千地区には古い木造建築や社寺が残っており、近年は散策の街として注目されています。また、区内には根津神社の「文京つつじまつり」、白山神社の「文京あじさいまつり」、伝通院の「文京朝顔・ほおずき市」など、季節感豊かな行事も祭りも多く、海外の観光客からも注目されています。
東京ドーム
文京ガーデン
■5 今後の文京区
文教地区として長い歴史の裏付けがあり、高等教育の選択肢が豊富な文京区では、近年「暮らす街」としての人気が高まり、人口増加が続いています。2023年1月の人口は約23万人、10年前の2013年1月は約20万人だったので、10年間で1割以上も人口が増えています。
また一方では、都心近くにありながら静かな街歩きを楽しめ、東京大学赤門、湯島聖堂、他、多くの歴史的建物もよく残っていることから、旅慣れた人の「散策のまち」としての人気も高まることでしょう。谷根千や本駒込、本郷や目白台などは「古き良き日本」を見られる場所として、旅慣れた人にはとくに、魅力的に映るのではないでしょうか。
細川邸下の坂道
根津神社
■ミニコラム「東京籐工芸」
「東京籐工芸」は、東京都指定の伝統工芸のひとつです。「籐」(とう)は竹に比べてしなやかな素材で、昨今は籐椅子や篭物が主流ですが、江戸時代には編傘、枕、草履表などに、さらに古くには刀槍の柄、筆、尺八などにも使われてきた、日本文化と密接な関係にある素材です。ひんやりとしたはだざわりが、高温多湿の日本の夏では好まれ、現在でも様々な場所で利用されています。
文京区千石に工房を構える「木内籐材工業」では、素足に心地よい籐の敷物や、籐工芸技術 「巻き」「飾り編み」を用いた円形に大きく開く「藤扇子」、籐と和紙(無形文化遺産細川紙)を合わせ、しなやかで柔らかい扇ぎ心地の「籐と和紙のうちわ」など伝統と新しさをかけあわせた工芸品も制作しています。
扇子
うちわ