目黒区は、各社が発表する、東京都や東京23区の『住みやすさランキング』等で上位になることも多い、住宅地として人気の区。自由が丘、中目黒などおしゃれで人気の商業地や、碑文谷、柿の木坂、自由が丘、祐天寺、洗足などの閑静な住宅街など、にぎわいと暮らしやすさが人気の理由と言えるでしょう。「目黒川」沿いは桜の名所としても有名で、「東京大学 駒場キャンパス」「東京工業大学 大岡山キャンパス」に代表されるように、文教の地としても知られています。
なお、現在の目黒区は、1932年、東京市の拡大に伴い、隣接する町村が編入される中で、荏原(えばら)郡の目黒町と碑衾(ひぶすま)町が合わさり誕生しました。ここでは現在の目黒区域を「目黒エリア」として紹介していきます。
目黒川の桜
東京大学 駒場キャンパス
■1 近世の目黒
江戸時代の江戸近郊の農村で、台地上には原野も拡がっていた目黒エリア。特に「目黒川」沿いは風光明媚な土地で、諸大名の下屋敷(別邸)も多く立地しました。
江戸期の目黒は、江戸市中の人々にとっては、「目黒不動尊」の信仰と門前のにぎわいでも知られ、身近な行楽地でもありました。
また、台地上の自然豊かな原野は、「江戸廻り六筋御鷹場」のひとつ、「目黒筋」の中心地で、将軍の鷹狩りや遊猟が盛んに行われました。特に駒場野(現在の駒場一帯)は、8代将軍吉宗のころから活況を呈したそうです。落語の『目黒のさんま』は、殿様が目黒まで鷹狩りに来た時の話とされています。図は江戸末期に歌川広重が『名所江戸百景』で描いた『爺々が茶屋』。現在の「茶屋坂」にあった茶屋で、将軍が「鷹狩り」の際にも立ち寄ったことから、落語『目黒のさんま』の話の舞台となったといわれています。『目黒のさんま』にちなんで、現在でも「目黒SUNまつり」(目黒区)、「目黒のさんま祭り」(品川区)といった、焼いたさんまをふるまうお祭りが開催され、多くの人でにぎわいます。
目黒不動尊
名所江戸百景 目黒爺々が茶屋 (名所江戸百景)(国立国会図書館蔵)
■2 明治期~戦前期
明治時代以降に明治政府の主導によって国中に近代化の波が広がりました。東京近郊に位置し、舟運も利用できる「目黒川」沿いには、官民の工場が立地するようになり、工業地域として発展しました。「目黒川」は、1923年から1937年にかけて、治水のため、および運河として船が運航できるようにするため、直線的に改修されました。
一方、江戸期の下屋敷などの跡地は明治期に入ると華族、官僚などの別荘地・邸宅地へと変わり、現在の高級住宅地としての礎となっていきます。
1907年には「目黒競馬場」が開設され、人気のレジャーとなりますが、1933年、現・府中市に「東京競馬場」が完成、移転となり廃止になりました。現在も「東京競馬場」で開催されるレース「目黒記念」にその名を残しています。現在、競馬場の跡地は住宅地となっていますが、道路の一部に競馬場時代のコースのカーブの形状が残ります。また、目黒通りには、「元競馬場前」という名のバス停や、トウルヌソルという馬の像もあり、当時競馬場があった歴史が感じられます。
「東京競馬倶楽部時代の目黒競馬場風景」
昭和初期の「目黒競馬場」
■3 宅地としての発展
「関東大震災」以降、「武蔵野台地」上では住宅地化が一層進みます。目黒エリアでは耕地整理・土地区画整理や、住宅会社による住宅地の開発による分譲も盛んに行われました。
「田園調布」「日吉」などの開発で知られる「田園都市株式会社」は、1922年、最初の分譲地として「洗足田園都市」の分譲を開始します。これは「田園調布」より1年早く分譲開始でした。ちなみに、洗足は皇后雅子さまの出身地としても知られています。
「自由が丘」は、自由主義教育を実践するための学園設立がその地名の由来です。その後、住民らの希望もあり、正式な駅名・地名となりました。戦前期より多くの文化人が暮らし、また鉄道の乗り換え駅として商業地としてもにぎわうようになり、人気の街へと発展しました。
大正期以降、特に「関東大震災」以降、東京の郊外では都市化が進み、1932年、東京市は15区から35区へ拡大します。このとき、新設20区の一つとして、目黒区が誕生しました。
洗足の街並み
自由が丘の街並み
■4 目黒区の現在と将来計画
上記のような歴史を背景に、現在は住宅地としてさらに発展しています。現在、人気の住宅地としては、祐天寺、碑文谷、柿の木坂、八雲、自由が丘、洗足など、人気のショッピングタウンとしては、自由が丘、中目黒などがあります。
特に東急東横線沿線は人気の住宅地が連なります。「中目黒駅」の西隣、祐天寺の地名は歴史ある寺院「祐天寺」に由来します。柿の木坂・八雲は「都立大学駅」の北側に広がる閑静な住宅地として知られます。
目黒区内では現在進行中のプロジェクトが複数あります。
「自由が丘駅」の駅前では、「自由が丘一丁目29番地区再開発事業」が進行中、2026年度完成予定となっています。地上14階、地下3階建てのビルが建設され、低層部には商業施設も入る予定。あわせて、歩行者通路、広場などが整備され、駅前のにぎわいがさらに増すことが期待されています。
「学芸大学駅」付近では「補助第26号線(目黒中央町)」の整備も2026年完成予定で進行中です。完成すれば「目黒通り」と「駒沢通り」が拡幅された道路で結ばれ、自動車の利用がスムーズになると共に、歩行者の安全性も高まります。
他にも、公共施設の整備など、未来に向けた計画が進んでおり、区の発展にますます期待が高まります。
「自由が丘一丁目29番地区再開発事業」完成イメージパース(目黒区HPより引用)
「自由が丘一丁目29番地区再開発事業」位置図(目黒区HPより引用)
■5 ミニコラム「旧前田家本邸」
目黒区立駒場公園にある、「旧前田家本邸」。「東京大学 駒場キャンパス」の近くに位置する理由は、江戸期の本郷の歴史にまでさかのぼります。
江戸期より、加賀藩前田家は本郷に広大な屋敷を構えていました。明治に入ると大部分が新政府に収公され、「文部省」の用地となり、その後、旧「東京大学」(のちの「東京帝国大学」)が設立されます。華族となった前田家は、縮小しながらも、引き続き本郷の大学の隣接地に邸宅を構えていました。
1926年、「東京帝国大学」の本郷の校地を拡張するため、本郷の前田家の土地と、駒場の農学部実習地の交換が決まります。前田家は、交換によって得た駒場の1万坪の敷地に豪奢な邸宅を建築します。地上3階地下1階建ての洋館と、渡り廊下で結ばれた2階建て純日本風の和館は、当時、東洋一の大邸宅とされました。
洋館は、ヨーロッパでの生活が長い前田家16代当主前田利為の希望が反映され、英国風の重厚な意匠でまとめられています。和館は、外国からの賓客に日本文化を伝える目的で建設された近代和風建築です。
現在建物は「旧前田家本邸」として一般公開されています。
旧前田家本邸 洋館
旧前田家本邸 洋館内部