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このまちディクショナリー~江東区編~

現在の江東区は、大きく分けて江戸時代から江戸の町の一部として発展してきた旧・深川区域と、昭和初期に大きく発展した旧・城東区域、さらに「東京湾」の埋立てにより誕生した湾岸地域からなります。
「門前仲町」「深川」「豊洲」「有明」などの街からなり、「江戸三大祭」の一つの「深川八幡祭り」、23区で最大の埋立て地面積や多くのマンションなど、下町情緒と都会的な雰囲気のいずれも身近なエリアです。

以下より、旧・深川区域を「深川エリア」、旧・城東区域を「城東エリア」、東京湾の埋立地を「湾岸エリア」とし、現在の江東区域全体を「江東エリア」として紹介していきます。

深川八幡祭り(富岡八幡宮の例祭)

豊洲付近の様子

■1 近世の「深川エリア」

「深川エリア」は古くは干潟・湿地帯でした。江戸へ入府した徳川家康は、江戸の改造に着手、特に重要だった塩を、産地の行徳から江戸まで安全に運ぶため「小名木川」を開削しました。その後、「深川エリア」では江戸の都市拡大に伴い本格的な埋立てが始まり、慶長期(1596~1615)には深川八郎右衛門が森下周辺の新田開発を行ったことで、深川村と名付けられます。

1657年の「明暦の大火」(江戸の大半を焼いた大火災)は深川の転機となりました。この時、江戸の町は約6割を焼失したといわれ、その復興にあたり、火事に強い街とするため「隅田川」東岸側、「深川エリア」にも江戸の町を拡張することになり、埋立て・整備はさらに進められました。多くの武家屋敷や社寺も移転するなど、江戸の都市機能の一部を担うようになりました。

「深川エリア」は湿地であるため、排水のため縦横に張り巡らされた水路も作られ、これを運河網として活かして物流の拠点ともなり、貯木場「木場」も創設されました。
物流の拠点となった「深川エリア」では、油・米穀・材木など、当時の重要な物資を扱う問屋がいくつも営業していました。

一方、こうした中で商業や文化も発展していきます。俳聖・松尾芭蕉が暮らした場所としても深川は有名です。「富岡八幡宮」などの寺社は開帳、祭礼などで江戸庶民に人気の遊興地としてもにぎわいます。「成田山」の出開帳も行われるようになりました。

富岡八幡宮

歌川広重『名所江戸百景 中川口』(国立国会図書館蔵)

■2 近世の「城東エリア」

「城東エリア」も湿地を埋め立てた土地が多いですが、亀戸は古くは小さな島であったといわれます。「亀戸」の地名の由来には諸説がありますが、そのうちのひとつは、この島の形が亀に似ていたから、というものです。「亀戸香取神社」は、1371年に社殿が創建されたといわれるなど、古社も残る歴史ある地でもあります。

江戸前期には、重要な運河であった「小名木川」に、江戸に出入りする人と物資の査検を行うため「中川番所」が設けられました。

江戸期になると大都市・江戸の近郊の農地・行楽地としての発展も見せます。農産物としては現在「亀戸大根」がその名を知られますが、ほかには「砂村一本ネギ」などの野菜も生産されていました。「亀戸大根」は根も葉も浅漬けにして美味しいと江戸で大変な人気だったようです。現在、亀戸では「亀戸大根」を生産する農家は途絶えてしまいましたが、葛飾区などで生産が続けられています。

江戸時代の「城東エリア」の行楽地としては「亀戸天神社」「亀戸梅屋敷」「五百羅漢寺 さざえ堂」などが知られていました。「亀戸天神社」は菅原道真を祀る神社で、江戸時代から現在に至るまで、梅や藤、葛餅でも有名で、江戸近郊の行楽地としてにぎわいました。

『名所江戸百景 亀戸天神境内』(国立国会図書館蔵)

「中川番所」跡付近と「小名木川」

■3 「深川・城東エリア」の明治期以降の発展

現在の東京23区の原形となる区が東京に設置された明治前期、郡区町村編制法によって、15区が置かれます。その際「深川エリア」は深川区となりました。「深川」の名は、深川八郎右衛門という人が、小名木川北岸一帯を開拓し、苗字を村名としたことが由来です。

明治時代、東京は工業の中心地となりますが、さらにその中心地として「深川・城東エリア」がありました。当時は、重量物や大量の輸送は陸運ではなく舟運が中心でした。「小名木川」を中心に運河網が発展していた「深川・城東エリア」は、セメント、製粉、製糖など、多くの国産初となる工業製品を生み出すなど、日本の工業の最先端の地となり、工業地域として大きく発展を見せました。現在、「深川・城東エリア」に大工場はなくなりましたが、広大な工場跡地を活用した、大規模な集合住宅、マンション、公共施設、学校などを見ることができます。

東京市の拡大に伴い、昭和初期の1932年に城東区が誕生しました。工業地などとして発展してきた同エリアですが、城東区誕生と同時に、改称により誕生したのが「砂町銀座」です。当時、まだ小規模だった砂町の商店街が、東京市の一部となったことを機に、銀座のようなにぎわいを目指し改称したものです。全長670m、約180店となる現在では、東京の3大銀座と言われる商店街の1つとなっています。

東京は、戦後に人口の減少や偏りがでたこともあり、復興に向け35区を23区に再編することになります。こうして、1947年、旧・深川区と旧・城東区の区域をもって「江東区」は誕生しました。

砂町銀座

木場公園大橋から見た仙台堀川の風景

■4 「湾岸エリア」の歴史

湾岸エリアの埋め立てやその地の活用は、時代とともに様々な目的に応じて進められ、このエリアを発展させてきました。
東京の湾岸は江戸時代以降に埋立てが進められ、明治期からは本格的に進行していきます。「東京港」の開設後、太平洋戦争を経て、復興のためのエネルギー基地として豊洲沖に埋立て「豊洲石炭埠頭」を造成します。「新東京火力発電所」「東京ガス豊洲工場」「豊洲鉄鋼埠頭」などを開設し、東京・日本の高度経済成長を支える施設の一つとなりました。
その後、新豊洲のこれらの施設は操業を停止、都市的な土地利用へ転換されることに。2018年には「豊洲市場」が開場、東京の食を支えるようになりました。

豊洲の造成以降も、埋立ては続けられ、辰巳、潮見、有明、東雲などの街が誕生しました。「13号地」(現「台場地区」「青海地区」)の埋立て地は、当初は貯木場などに利用されていました。その後、東京の7番目の「副都心」とする方針が定められ、1995年に「臨海副都心」に指定されました。周辺の開発が進み、「レインボーブリッジ」と「首都高速11号台場線」が開通、「ゆりかもめ」の新橋~有明間も開業するなど、利便性が向上します。

コンベンションの「東京ビッグサイト(東京国際展示場)」は1996年に開設。その後、オフィスやタワーマンションなどの住宅が誕生したほか、大規模商業施設やレジャー施設も開業。現在では在住・在勤者も増え、多くの観光客・買い物客も訪れるにぎわう街となっています。「臨海副都心」周辺は「東京2020オリンピック・パラリンピック」の会場としても使用されました。

ビッグサイト

豊洲市場

■5 現在の「江東エリア」と将来計画

現在の「江東エリア」は、震災・戦災で大きな被害を受けましたが、復興を遂げ、2020年東京オリンピック・パラリンピック開催などもシンボルになるような発展を続けてきています。

「木場」の貯木場は「新木場」へ移転となり、「木場」の跡地は「木場公園」「東京都現代美術館」などになりました。
埋立地・海の森では、2024年度末開園予定で「海の森公園」の整備が進められています。計画では23区内最大の面積の公園となる予定です。

大きな将来計画としては、「地下鉄8号線(有楽町線)」の延伸(豊洲~住吉間)があります。江東区は、長年にわたりこの計画を要望してきましたが、2022年、ようやく鉄道事業の許可があり、2030年代半ばの開業を目指して具体的に事業が動き始めました。現在、江東区の中央部には、南北に結ぶ鉄道路線はないため、開通すれば区内のアクセス性が向上します。豊洲駅・住吉駅がさらに便利な乗換駅になるほか、枝川付近と千石付近に新駅の開設も予定されており、新駅周辺が、地域の新たな核として発展することが期待できます。

京都住宅供給公社南砂住宅(汽車製造跡地)

豊洲の風景

■6 伝統・文化 ミニコラム「江戸指物」

「指物」とは釘を用いず、木の接手部分を精巧に加工して組み合わせて作られた家具や雑貨のこと。ものさしで板の寸法を測ることを「指す」ということから、「指物」と呼ばれています。

もともとは京都で発達しましたが、江戸時代になると、江戸においても、将軍家や大名家などの武家、江戸で活躍した商人、歌舞伎役者のために作られるようになり、その後、一般にも広まりました。「江戸指物」には過度な装飾がなく、天然素材の木目を生かしたシンプルなデザインで、現在も人気があります。

現在、東京における「江戸指物」の中心地は荒川区・台東区ですが、江東区にも一軒だけ「茶の湯指物千匠」という工房があり、茶道関係の指物を中心に制作しています。

江戸指物