足立区は、江戸時代からの交通の要衝「千住」(北千住)をはじめ、「綾瀬」「西新井」「竹ノ塚」「梅島」などが主要な街です。南北に日光街道、東西に環状七号線が通ります。日光街道については南は日本橋、北は日光まで、環状七号線は、東側は葛飾区・江戸川区を通り葛西臨海公園前交差点まで、西側へは、中野区・世田谷区などを通り、品川区の環七大井ふ頭交差点まで通じます。
足立区は、子育て環境の良さが特徴のひとつです。中でも、「区立小学校・中学校の数」は23区中のトップクラス(足立区調べ、2023年1月時点)。小学校は68校、中学校は35校あり、公教育が受けやすい区と言えます。また、「区立公園の面積の広さ」は23区で2番目(足立区調べ、2022年4月時点)。全国の公園で見られる「タコ遊具」は足立区が発祥の地、区内の多くの公園でユニークな遊具を見ることができます。近年は「子ども・若者全力応援プラン」を推進するなど、子育て世代と若者の支援に対する先進的な取り組みをしている区でもあります。
商業施設でにぎわう北千住駅前
上沼田北公園のタコ遊具
■1 古代~中世の足立区
6000年前頃までは海水面が今よりも高く、区南部の千住の付近まで海が入り込んでいました。区内各地で貝殻が出土し、千住旭町ではクジラの骨が発見されていることから、この付近に海岸があったことがわかります。
約4000年前、海が後退し始めると、北部から人々が住み始めました。この地域には「舎人遺跡」と「伊興遺跡」と呼ばれる、古墳時代初期の重要な遺跡があります。特に伊興遺跡からは、船の形を模した形代や西日本の特産品である須恵器が発見され、水上交易が行われていたことを示唆しています。
7世紀に「足立」という地名が初めて文献に登場します。この時代に記された「武蔵国足立郡」の木簡がその証です。平安時代までの足立区は静かな農村地帯でしたが、鎌倉時代に入ると、千住近くの隅田川河岸に「関屋の里」という関所が設置されました。これにより、地域は鎌倉幕府による人や荷物の管理の要所として発展しました。
また、12世紀から14世紀にかけては「足立氏」という武士団が地域を支配していました。しかし、江戸時代に入ると、この武士団は衰退し、足立区は徳川幕府の直接統治下に入ることとなりました。
伊興遺跡公園(竪穴式住居)
かつての「関屋の里」、現在の京成電鉄「京成関屋駅」付近
■2 江戸時代の足立区
江戸時代の足立区は大きな変化の時期を迎えます。徳川家康の江戸入城後、最初に行った事業は、江戸と全国を結ぶ街道の整備でした。足立区には「奥州街道」と「日光街道」が通過することになり、1594年に「関屋の里」付近に新たに「千住大橋」が架けられました。これは隅田川(当時は入間川と呼ばれた)に架けられた最初の橋で、現在の千住大橋よりも200メートル上流にありました。
その後、1597年に「千住宿」が宿場に指定され、大橋の両岸に宿場町が形成されていきました。千住は陸上交通と隅田川の水上交通が交わる交通の要衝であったため、米、野菜、川魚などが各地から集まり、市場を生み出しました。江戸時代中期には、神田・駒込の市場とともに「江戸の三市場」と呼ばれていました。
一方、街道沿い以外はほとんどが農村地帯でした。江戸時代以前は主に区の西部で稲作が行われていましたが、江戸時代中期以降は灌漑(河川などから田や畑に水を引き人工的に給水や排水をすること)技術が発達し、東部でも稲作が行われるようになりました。
観光地としては、「西新井大師」が「女性の厄除け祈願所」として人気を集め、江戸市中からの参詣客でにぎわいました。
現在の千住大橋
明治初期の千住大橋
■3 明治時代~戦前の足立区
明治時代の足立区は「東京府南足立郡」、郊外の農村地帯としてスタートしました。やがて、都心部で耐火建材としてレンガの需要が急増すると、良質な材料が採れる荒川(隅田川)付近にレンガの工場が建設され、水運を利用して都心に運ばれました。区内には堀之内、小台大門、宮城、本木などにレンガ工場があり、明治時代の区の主産業となりました。
明治時代は鉄道交通網の幕開けの時代でもあり、最初に開業した鉄道は1896年、田端~土浦間で開通した「日本鉄道土浦線」(常磐線)で、この時に「北千住駅」が設置されました。駅名の由来には諸説ありますが、江戸時代に誕生した日光道中の初宿、陸前浜街道の分岐点としての千住宿が、 明治になり「千住宿北組」、「北千住」と変遷したことが由来ともされています。1899年には東武鉄道も開通し、北千住周辺や隅田川沿いの工業は、北関東や茨城方面の労働力を得て発展しました。
この時代には荒川(隅田川)沿いに工場と住居が集中しており、いったん水害が発生すると大きな被害となりました。特に1910年の大水害の被害は甚大で、これをきっかけに「荒川放水路」の建設事業が始まり、1930年に完成しました。放水路は足立区の南西部を貫通し、住む場所を変更することになった家屋も多くありましたが、そのおかげで水害は激減しました。この時から、新しい放水路が「荒川」、かつての荒川が「隅田川」となりました。
1923年の関東大震災では、工事中の荒川によって都心からの火は遮られ、区内に大きな被害はありませんでした。そのため、大震災後には被災者が多く移住し、区の人口は急増しました。
1920年代以降の足立区は、東京のエネルギーを支えるインフラ拠点となりました。1926年に開業した「東京電燈千住火力発電所」は当時日本最大の火力発電所で、隅田川の水運で石炭を運び、最大75000kWを発電しました。この発電所の煙突は下町のどこからでもよく見え「四本煙突」(おばけ煙突)として知られました。
島氷川神社の煉瓦で作られた祠(有形文化財)
おばけ煙突モニュメント(煙突外壁に使われた鉄の覆)
■4 戦後の足立区
戦後の足立区は、人口増とベッドタウン化の時代でした。足立区は農地・工場跡地が多かったため、まとまった区画を宅地化しやすく、1950年代から60年代にかけて公営団地が多く建てられました。
1958年に完成した「西新井第一団地」をはじめ、「花畑団地」「竹の塚団地」「大谷田団地」などが次々と完成し、この時代、23区内に建てられた公営住宅のうち約2割を足立区が占めたといいます。
1962年には北千住と都心を結ぶ「地下鉄千代田線」が開通し、沿線の町屋・北千住・綾瀬・北綾瀬が発展しました。同じ1962年には東武線が地下鉄日比谷線との直通運転を開始したことから、五反野・梅島・西新井・竹ノ塚など東武線沿いでもベッドタウン化が進みました。
1950年代から60年代にかけては、貨物輸送の主役が鉄道からトラックへと移行した時期でもありました。農地が多かった足立区は幹線道路の新設に好都合で、23区の中でも早い時期にモータリゼーションに対応した区といえます。
江戸時代より整備され活用されてきた奥州・日光街道は、1952年に「国道4号線」となって拡幅が進められ、1959年には区を東西に横断する「環七通り」が開通し、1982年には「首都高6号線」も開通しました。また、これらの交通網と東京近郊の立地を生かし、工場や建設業などの業種が多く区内に進出し、農業も稲作から野菜や花の栽培など、近郊農業型へと変化していきました。
いっぽう、足立区西部は「鉄道空白地帯」と呼ばれ、長らくバスが公共交通の主役となっていましたが、2008年に「日暮里・舎人ライナー」が開通したことで交通利便性が劇的に改善され、近年は成長著しい沿線となっています。
各地域が大きな進化を遂げたこの時代、特に常磐線・千代田線・東武線・つくばエクスプレスが交差する北千住駅周辺の発展は著しく、2000年代には再開発も行われ、江戸時代から変わらない交通の要衝、足立区の中心地であり続けています。
首都高速中央環状線と首都高速川口線を結ぶ江北ジャンクション
綾瀬駅前の街並み
■5 足立区の未来
足立区では現在、「100年に一度の変化のとき」というスローガンを掲げ、千住、綾瀬・北綾瀬、江北、西新井・梅島、六町、竹の塚、花畑の7エリアで、「エリアデザイン」の政策を推進しています。例えば、花畑では、周囲に塀がなく、食堂や図書館は区民も利用できる地域に開かれた大学である、「文教大学 東京あだちキャンパス」の開設など、エリアごとに様々な取り組みがなされています。これによって、今後は街ごとの個性が明確化していくと考えられます。
足立区は戦後、「団地の街」として人口を急増させ、街を発展させてきましたが、昨今はこれらの団地が取り壊され、新しい世代の街が造られつつあります。中でも江北エリアでは「日暮里・舎人ライナー」の開業、2021年には大学病院の開業など、今後も開発が進められていく予定です。
東武沿線の竹ノ塚では2022年に鉄道の高架化が完了し、駅周辺では2024年の完成に向けて再開発が進められています。千代田線沿いでは北綾瀬駅前で、2025年の完成に向け大規模商業施設の建設が進んでいます。
治安についても、過去より劇的に改善され、刑法犯の認知件数はピーク時から8割以上減(2021年)となっています。公園や緑地の多さ、近代的な鉄道交通網と道路網、どこまでも平坦な土地、若い学生であふれる活気ある駅前など、今の足立区には「ずっと暮らしたい」と思える要素がそろっています。
高架化の完了した竹ノ塚駅
荒川沿いの風景も足立区らしさ
■ミニコラム「江戸刺繍」
「江戸刺繍」は江戸時代中期以降、経済力を持った商人や町人の間で流行した衣服装飾が起源となっています。絹織物または麻織物の衣服に絹糸、金糸、銀糸、漆糸などを使って豪華な刺繍を施します。「日本刺繍」には「京風」「加賀風」「江戸風」の3つがあり、江戸刺繍は空間を楽しむような刺繍の入れ方をするのが特徴です。
精密画のような繊細な作品は、見る角度によって表情が変わる“糸の芸術品”と言えます。
日本刺繍