菊川歴史小話
今なお江戸時代の風情が薫る“本所”菊川
この一帯は江戸時代初期まで湿地帯であり、人が住むには適していない地でした。
しかし1657年に江戸時代最大の大火事、「明暦の大火」により江戸中が焼け野原となると、幕府がこの一帯に武家屋敷を移転させるための整備に着手しました。
そうして、武家屋敷を主とする町として開発されたのがこの墨田区南部、“本所”と呼ばれるエリアです。
その“本所”の南端に位置するのがこの菊川という町。町西方に流れていた川の名を取り、「菊川」という名が付けられたと言います。
現在は“本所”という名前は付いていませんが、このエリアでは、古くから馴染み深い本所の名を使い「本所菊川」と呼ぶ習慣が根付いています。
What’s 明暦の大火?
とある少女が恋の病で亡くなる。
形見は恋した相手と御揃いの振袖。転売されたこの振袖は、行く先々で持ち主を病にしていく―。
その振袖には、何かの因縁がある。そう感じ、燃やして供養をしようとすると途端に狂風が起こり、そして火のついた振袖は人が立ち上がるような姿で空に舞い、江戸の町を紅蓮の炎で覆いつくしていった―。
菊川、もといこの一帯の発展へと繋がった江戸時代最大の大火事は、(出火原因は諸説ありますが)上記のエピソードがあることから「振袖火事」という別名がつけられました。このお話は時代劇の題材となった他、小泉八雲が小説として作品にしています。
本所と縁のある歴史上の人物
吉良上野介
国内外問わず人気のある「忠臣蔵」。その元となった「元禄赤穂事件」の舞台となったのがこのエリアにある「本所松坂町公園(吉良上野介邸跡)」です。
赤穂浪士が藩主の無念を晴らすために、吉良上野介の屋敷に討ち入りをしたこの事件。戦の無い平和な世の中に起きた一大事件であり、赤穂浪士たちが主の仇を命がけで討つという「武士道」に美学を見出されたことも相まって、当時多くの民衆の興味を惹きました。
この事件の後、すぐに人形浄瑠璃の題材となり、以降も今日に至るまで「忠臣蔵」をはじめとした様々な「元禄赤穂事件」を基にした作品が生み出され、多くの人に親しまれています。
8代将軍・徳川吉宗
春の風物詩、隅田川のお花見。夏の風物詩、隅田川の花火大会。日本人にも、海外からの観光客にも馴染みの深いイベントであるこれらは、「暴れん坊将軍」で有名な8代将軍・徳川吉宗により催されたものです。
庶民の行楽のために桜を隅田川の両岸に植え、花見の場として推奨したことが始まりとされる花見。
享保の大飢饉とコレラによる犠牲者の慰霊と悪疫退散の意を込めて花火を打ち上げたのが始まりの花火大会。
改革により一揆が多発したことや「暴れん坊」のイメージが先行する吉宗ですが、このように庶民の暮らしへと目を向ける「名君」でもありました。