東京23区の西部に位置する世田谷区。面積は東京23区の中で2番目を誇り、人口は2位の練馬区に20万人近くの差をつける約92万人(2022年時点)と圧倒的な1位です。
世田谷区は、魅力の異なる様々なエリアで構成されています。
成城などの閑静な住宅街、暮らしに便利な商店街が点在する経堂や千歳烏山。おしゃれな商業地である下北沢や二子玉川も人気です。下北沢はサブカルチャーの聖地としても高い知名度を持ちます。また、「砧公園」や「世田谷公園」など、都内でも有数の大きな公園や、「等々力渓谷」や多摩川沿いなど自然豊かなエリアの存在も世田谷区の特徴です。
あらゆる都市機能がバランスよく配置され、年月を経てさらに淘汰熟成された「住みよさ」が世田谷区の真骨頂であり、多くの人々を魅了してきました。
砧公園
二子玉川
■1 はるか昔の世田谷
世田谷区はなぜ、このような街になったのでしょうか。歴史を辿りながら紐解いていきましょう。
はるか昔、世田谷区の大部分は森で覆われていました。多摩川は今よりも幅が広く、世田谷区の大半が含まれる「武蔵野台地」の上は森で、「国分寺崖線」の下の低地は多摩川が氾濫するため草地でした。そのため、人が定住し始めたのは崖の上でした。
周辺からは縄文時代・弥生時代の土器や、古墳時代の遺跡が発掘されています。また、世田谷区最大規模の遺跡は、崖線上の「玉川野毛町公園」にある「野毛大塚古墳」で、5世紀の豪族の墓とされています。古墳時代にはすでに発達した社会があったことがわかります。
野毛大塚古墳
野毛大塚古墳
■2 近世以前の世田谷
最初に街ができたのは「大山街道」沿いでした。大山街道は伊勢原の阿夫利神社(大山)への参拝路で、8世紀ごろから整備されました。
大山街道は赤坂を起点に三軒茶屋から世田谷通り沿いを進み、ボロ市通りを通り、弦巻から用賀に南下し、二子玉川にて渡し舟で多摩川を渡るルートでした。鎌倉時代には北から世田谷に入り、その先は大山街道と同じ道筋をたどる「鎌倉街道中道」も開通。ふたつの街道が合流するボロ市通り付近(世田谷駅の南側)に、最初の街が生まれました。
室町時代になると、「世田谷城」ができ、幕府とのつながりが深い奥州吉良氏が世田谷を統治しました。世田谷は城下町として、また大山や鎌倉への旅行者のための宿場町として、発展していきました。
現在も続いている世田谷の冬の風物詩「ボロ市」は、織田信長や小田原北条氏が行った「楽市・楽座令」にもとづいて1578年に始まりました。これは現存する日本最古のフリーマーケットと言えるものです。
■3 近世(江戸時代)の世田谷
江戸時代には、各地の大名に江戸周辺の土地が分け与えられました。世田谷は「彦根藩」(滋賀県)に与えられ、「彦根藩世田谷領」となりました。
この時、「豪徳寺」が彦根藩井伊家の菩提寺となります。「豪徳寺」は「招き猫発祥の地」と言われていますが、これは彦根藩主の井伊直孝が鷹狩の道中で猫に手招きされ寺に入ったところ、雷雨を逃れることができたという伝説が由来で、そこから「幸運を招く」という縁起物の「招き猫」が生まれ、全国に伝わりました。
この頃、大山街道は、秦野のタバコ、相模川の鮎など沿道の特産物が江戸に運ばれるルートとしての役割を果たすとともに、庶民の間で起きた大山参拝の大ブームもあり、多くの人々がこの街道を通りました。また、世田谷北部には江戸時代初期に「甲州街道」が新たに開かれ、この街道沿いにも宿場町が生まれました。世田谷区では「下高井戸」に新しい宿場町ができています。
街道沿い以外のエリアは、引き続き農村地帯として発展していきます。江戸向けの野菜や雑穀の栽培が徐々に増えました。中でも「大蔵大根」という世田谷独自の大根がよく知られていたそうです。
豪徳寺の招き猫
江戸後期から昭和初期にかけての農村風景を再現した次大夫堀公園
■4 明治時代から戦前の世田谷
江戸時代が終わり、明治時代の1871年廃藩置県後、世田谷はようやく東京府(一部は神奈川県)になります。
明治中期頃、都心部にあった陸軍用地が手狭になったことから郊外への移転が相次ぎ、現在の世田谷区内にも練兵場など多くの陸軍施設が転営。多くの軍人や訓練兵が集まるようになり、周辺は商業地としても発展していきます。
明治後期以降は、鉄道開発が一気に進みます。世田谷では1907年に玉電(玉川電鉄・路面電車)が開通し、現在の東急田園都市線の原型となりました。その後も1913年の京王線、1925年の東急世田谷線、1926年の東急東横線、1927年の小田急小田原線と次々に開業し、沿線に新しい街が生まれました。
住宅地・行楽地としての発展も進みます。二子玉川を中心とする玉川村には料亭や旅館が生まれ、玉電の開業と同時に「玉川遊園地」が開業、保養地としての性格を強めました。また、眺望が良い国分寺崖線沿いの高台(岡本、瀬田、野毛)には実業家や政治家などの別荘が建てられました。
これらを経て世田谷の人口は急増しましたが、拍車をかけたのは1923年の「関東大震災」でした。都心部で多くの建物が破壊されたことから郊外への人口流出が進み、世田谷にも多くの人が移り住みました。
1920年代以降の郊外への人口流出を受けて、東京市は周辺の町や村を合併して拡大する方針を示し、1932年、「荏原郡世田谷町」だった世田谷は、隣接する「駒沢町」「松沢村」「玉川村」の4町村と合併し、「東京市世田谷区」となりました。さらにその4年後、「砧村」と「千歳村」も加えて、現在の世田谷区の形ができました。
世田谷線
三軒茶屋からの街並み
■5 戦後から現在まで、宅地としての発展
第二次世界大戦後は、東京への一極集中が加速するのにともなって、世田谷への人口流入も加速しました。住宅地は駅周辺からさらに範囲を広げ、駅前や道路沿いの建物は商店に変わり、農地は売却されて宅地に変わり、高度経済成長期が終わる頃までに、多くの土地が住宅地となりました。
戦後には集合住宅の建設もさかんに行われました。世田谷区には軍用地や防空緑地が多くあったため、そこを団地、公園、学校用地などに転用して人口増に対応しました。
「世田谷=住宅地」のイメージが定着したのは、漫画「サザエさん」の影響もあります。サザエさんは1969年にアニメーション化され、現在まで50年以上もの間、世田谷区で暮らす3世代家族の日常を描き続けてきました。現在の日本でも、最も有名なアニメ作品のひとつです。作者の長谷川町子が暮らし、漫画の参考とした街は桜新町でした。
桜新町の住宅街の様子
桜新町のサザエさん像
■6 世田谷区の未来
世田谷区は現在も発展を続けています。世田谷を語る時に外せないのは、「渋谷」と「新宿」です。世田谷は、このふたつの街に近接し、アクセスがしやすいため、ふたつの街が発展すれば、世田谷のにぎわいも増します。現在、渋谷で大規模な再開発事業が進んでいることを考えると、世田谷の将来への期待も高まります。
世田谷区役所は現在建て替え事業が進んでおり、2027年までに新しい区役所庁舎が完成予定です。地上10階建ての建物に、従来の建築物を一部活用した区民ホールが隣接する形になるそうで、文化や芸術の新しい拠点になることでしょう。
また、「世田谷迷宮」と揶揄されるほどの、道の狭さ、複雑さが世田谷の欠点として知られています。しかしそれも徐々に改善されつつあり、道路の拡張事業が各地で行われ、三宿から中野へ伸びる道路の新設や、井の頭通りの拡幅も進んでいます。区内の鉄道の高架化・地下化も進み、現在は京王線の高架化が進められています。
玉堤通りの上では東名高速と外環の接続事業が進んでおり、完成すれば高速道路の利便性が飛躍的に高まるでしょう。
時を重ねた世田谷区。住宅地としてのキャリアもすでに100年を超えたところが多く昨今に始まった新興住宅地とは違う落ち着きとともに、今後のさらなる発展にも期待が高まります。
世田谷区役所
新宿副都心と渋谷・世田谷区方面
ミニコラム 世田谷で触れる伝統文化
世田谷区の「世田谷ボロ市」は16世紀から約450年も続いているもので、形のない文化遺産と言えます。16-18世紀には「歳の市」と呼ばれ主に農具が売買されていましたが、明治期からは古着やボロ布の扱いが増え、いつしか「ボロ市」と呼ばれるようになりました。
現在では雑多なものが売買されていますが、古い民具や工芸品などが格安で出品されていることも多く、宝探しのような一面をもっています。開催は12月15日・16日、1月15日・16日の4日間で、例年20万人ほどが訪れます。
「ボロ市」の出店でユニークなものの一つに、日本刀の鍔(つば)を取り扱う店があります。江戸時代、武士の装飾として様々な意匠が発展した鍔を、「隆剣」では、当時の材料、製法を再現して制作しています。江戸時代のお洒落でもあった鍔を、ストラップや飾りとして楽しむことができます。なお、「隆剣」の工房は世田谷区三宿にあります。ボロ市通りの近くには日本刀研磨の「文永洞」もあり、日本の歴史の一端を感じることができます。