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このまちディクショナリー~中野区編~

中野区は、商業・行政の中心地でもある中野駅周辺を中核として発展してきた街です。地形的には「武蔵野台地」の台地面に位置し、「妙正寺川」や「善福寺川」といった小河川が刻んだ谷が形成されています。区民の人口の割合としては、20代・30代が多く(2020年の国勢調査では23区で豊島区に次いで2番目)、特に若い人に人気の区ともいえます。

区内には、JR中央線、西武新宿線の他、複数の地下鉄など鉄道網が充実していて便利です。また、東西に「目白通り」「新青梅街道」「早稲田通り」「青梅街道」「方南通り」、南北には「山手通り」「中野通り」「環七通り」「中杉通り」などの幹線道路も通り、自動車や自転車で各方面へ移動しやすい場所と言えます。

中野駅周辺は大型の商業施設や大規模商店街でにぎわい、特に「サブカルチャーの聖地」とも呼ばれる「中野ブロードウェイ」には各分野の趣味を持つ人でもにぎわっています。一方、歴史ある住宅地が拡がる西武線・地下鉄などの各駅前には、日常の買い物に便利な商店街が伸びています。

中野通り(中野駅付近)

中野ブロードウェイ

■1 近世までの中野

中野は室町時代の「中野長者」という伝説も残る歴史ある地。紀伊国の生まれの鈴木九郎は、馬売りや当時荒地だった中野付近の開拓を行ったといいます。信仰心の深さから一層働くようになり「中野長者」と呼ばれるほど金持ちになりますが、ある時、大事にしていた一人娘を病気で失い、その後は僧となり、「正観寺」(現「成願寺」)の建立や橋の架橋を行ったといいます。

江戸時代の中野エリアは、「武蔵野台地」上の郊外でありながら、物流の拠点や行楽地としての発展がみられました。「青梅街道」は、江戸初期の1606年に「江戸城」修築に必要な石灰を上成木村・北小曽木村(現・青梅市)から運ぶため、大久保長安が中心となって開削した道です。

当時の中野エリアは、大都市・江戸の近郊にあたり、畑作を中心とする農業が発展します。また、「青梅街道」が通っていることで、中野は多摩地方からやって来る農産物などの中継・集散地となったほか、製粉、味噌・醤油醸造など食品加工業も発展し、江戸で暮らす人々の生活を支えました。

この頃の中野の中心地は「青梅街道」沿いで、「宝仙寺」などの寺院も繁栄しました。「宝仙寺」の東には三重塔の「中野塔」があり、『江戸名所図会 桃園春興』にも描かれる名所として知られていました。また、中野村には「青梅街道」から現・杉並区にある「妙法寺」へ向かう道の分岐点に「鍋屋」という茶店があり、付近は「鍋屋横丁」と呼ばれ、にぎわうようになりました。

当時の新井村(現・中野区新井)の「新井山梅照院」も「目の薬師」「子育薬師」として信仰を集めるなど、中野エリアは江戸期から、江戸町民の信仰・行楽の地としてにぎわっていたようです。

現在の「中野駅」周辺は、当時は街道の外れの原野で、徳川将軍家の「鷹場」の一部となります。五代将軍・徳川綱吉の時代には「生類憐みの令」で「鷹狩」は禁止されますが、ここには、犬を保護するための「犬小屋」(「御囲(おかこい)」)が置かれました。その後、「鷹狩」が復活し、八代将軍・徳川吉宗は度々、中野を訪れるようになると、この地が気に入り、桃の木を植えた景勝地「桃園」が造られました。

『江戸名所図会 桃園春興』 国立国会図書館蔵

「犬小屋」があったことを示す犬の像

■2 明治期~大正前期の中野

「中野駅」周辺の発展は、明治中期、JR中央線の前身である「甲武鉄道」が開通、「中野駅」が置かれたことに始まります。中心地から少し外れた場所で、江戸期の「お囲い」の跡地でもあった「中野駅」の北側⼀帯には、広大な雑木林や桑畑が拡がっていました。ここに「鉄道大隊」「電信第一連隊」など陸軍施設が次々と設置され、太平洋戦争の頃には「陸軍中野学校」も置かれ、中野は『陸軍の街』として発展しました。

明治期の中野エリアは、鉄道が開通し便利になりつつも、まだ広大な未使用の土地も多く、広大な土地を必要とする施設の新設や移転先となりました。例えば、1900年には「東京府農事試験場」が創設されており、現在跡地は「中野区立城山公園」になっています。「豊多摩監獄」は1910年に着工、1915年に竣工となっており、跡地は「中野区立平和の森公園」となりました。哲学者・井上円了が「東洋大学」の認可を記念して1904年に建立した「四聖堂」は、その後「哲学堂」へ発展し、現在は「中野区立哲学堂公園」となりました。「中野区立哲学堂公園」は現在は桜の名所としても知られており、約100本の桜を楽しみ春には多くの人が訪れます。
このように、明治期~大正前期の土地利用が、現在の街に自然と憩いの空間をもたらしています。

大正時代の中野駅舎(写真提供:中野区)

哲学堂公園

■3 大正中期頃から都市化が進む

東京西郊では、第一次世界大戦後、大正中期頃から都市化が進みました。中野エリアにおいても、「西武軌道」(のちの「都電杉並線」)や「西武村山線」(現「西武新宿線」)が開通、国鉄(現・JR)中央線も電車運転を開始するなど、通勤・通学にも便利となり、住宅地として人気となります。

住宅地化が進み人口が増えると、駅前に商店も出店するようになり、日常生活に便利な商店街へ発展しました。江戸期からにぎわった「鍋屋横丁」も商業地として発展、昭和初期頃には「中野銀座」とも呼ばれました。

また、人口増と商業の発展に伴い、水道・病院など、インフラや生活施設も整備・開設されるようになります。「野方配水塔」は、「荒玉水道」の配水施設として当時の野方町に建設され、1929年に竣工したものです。

特に、関東大震災後は移住する人が激増、1932年東京市域の拡大の際、中野町と野方町の区域をもって中野区が誕生しました。

大正時代、東中野に料亭として開かれた「日本閣」は後に、東京を代表する結婚式場へ発展。1931年には、月賦販売商の「丸二商会」に勤めていた青井忠治氏が独立し、1935年に商号を「丸井」とし、月賦百貨店として発展。現在は「マルイ」として、ファッションビルとで全国的に有名になりました。

大正時代の中野駅構内(写真提供:中野区)

大正時代 青梅街道・鍋横の文具店(写真提供:中野区)

■4 戦後の中野

戦災復興期の1948年、中野駅北口の商店街は、「東京都美観商店街制度」により、近代的な商店街を目指して「中野北口美観商店会」となり、1958年には初代のアーケードが建設されました。現在は「サンモール」と呼ばれています。1966年にはアーケードにつながる形で「中野ブロードウェイ」も誕生。「中野ブロードウェイ」の上は、居住用マンションがあり、屋上には庭園やプールのある高級物件として知られていました。1973年には「中野サンプラザ」も開業し、中野駅の駅前は商業・レジャーの集積地となります。

1954年中野北口美観商店街の商業まつり(写真提供:中野区)

1966年10月 完成したブロードウェイセンター(手前はサンプラザ建設予定地)(写真提供:中野区)

■5 現在の中野駅周辺と将来計画

現在、「サンモール」「中野ブロードウェイ」及び周辺の商店街は、にぎわいとともにレトロ感も残る魅力的な商業地域となっています。

「陸軍中野学校」跡地にあった「警察大学校」は2001年に府中へ移転し、広大な跡地では計画的なまちづくりが行われ、2012年に「中野四季の都市」が街びらきとなりました。「中野四季の森公園」を中心に、オフィスビル、マンション、病院などのほか、早稲田大学や明治大学など有名大学のキャンパスも誕生しました。

現在は「中野駅周辺 まちづくり事業」として11事業が進行中となっており、大きく変化を遂げつつあります。「中野区役所」は新庁舎整備事業が進められており、2024年に「中野体育館」跡地に新庁舎が開設される予定です。「中野駅西側南北通路・橋上駅舎等事業」は2026年に開業予定、「中野サンプラザ」は2023年に閉館となり、跡地には2028年度竣工予定で、地下3階、地上61階建ての高さ約250mの高層棟などからなる「NAKANOサンプラザシティ」が建設されます。「中野サンプラザ」は地下2階、地上21階建てであったことからも、新たな街のシンボルの誕生と言えるでしょう。

「中野四季の森公園」と建設中の「中野区役所」(写真左奥)

中野サンプラザを再整備する大規模複合開発完成予想パース

■ミニコラム 「東京無地染」

一反(約13メートル)の白い生地を染める、無地染。東京無地染は、江戸時代の染物職人たちにより使われた江戸紫・藍・紅花・江戸茶等の無地染を起源として発展したもので、絹織物が使われています。
江戸時代より伝わる色見本は170色にも及び、職人は微妙な色の違いを表現していきます。一度染めた色を色抜きしてほかの色に染め直すこともできるため、年齢に応じて色を変えるといった楽しみ方も可能です。着物以外にも、ストール、ブックカバーやバッグなどの生活雑貨など、日常的に使えるさまざまな製品が作られています。