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このまちディクショナリー~練馬区編~

練馬区は東京23区の北西部に位置する区で、北は埼玉県、南は中野区・杉並区・武蔵野市に接しています。

公園数は23区中1位(2022年4月1日時点)、農地面積も1位(2023年3月更新の練馬区HPより)と、都心近くにありながら、豊かな緑に囲まれ、農地も身近な暮らしやすい街となっています。

区域の大半は武蔵野台地上にあり、水はけが良いため古くから畑作が農業の中心でした。区の中央を石神井川、北部を白子川が流れています。湧水もあちこちで見られ、石神井川近くの三宝寺池は湧水によってできた池です。

23区で一番新しい区でもあり、1947年8月に板橋区から分離し「23番目の区」となりました。西武池袋線の練馬・江古田・石神井公園・大泉学園、西武新宿線の上石神井・武蔵関、地下鉄大江戸線の光が丘などが代表的な街です。

光が丘公園

川越街道と旧川越街道の分岐点(昭和31年撮影)(写真提供:練馬区)

■1 先史時代の練馬区

練馬に人が住み始めたのは、旧石器時代の約3万年前と考えられています。大泉の井頭池(いがしらいけ)を水源とする白子川沿いと、小金井公園を水源に、三宝寺池の湧水を加えて流れる石神井川に沿って、多くの遺跡が見つかっています。石神井公園南の「池淵遺跡」は約5千年前、城北中央公園の「栗原遺跡」は1万年以上前の集落とみられています。

池淵遺跡

栗原遺跡

■2 中世(奈良時代~江戸時代前)の練馬区

7世紀から10世紀にかけての律令時代、練馬は武蔵国の「豊島郡」に属していました。豊島郡は広範囲に及ぶ地域でしたが、そのうちの「広岡郷」が練馬地域にあたると考えられています。

広岡郷ではこのころ、馬などを放し飼いにする「牧」(まき)が発達しており、献上用の馬が多く飼育されていました。この地域の馬は「坂東駒」と呼ばれ、政府から高い評価を受けていたようです。

武蔵国の牧の長は「別当」と呼ばれ、別当は牧の中に開墾された田畑の経営で力を付け、荘園が生まれました。同時に荘園の自衛組織である武士団も生まれ、練馬はこのうち、豊島氏の勢力下に入りました。

この時代、豊島氏により石神井城と練馬城のふたつの城が造られましたが、これらの城は1477年、上杉家の太田道灌によって攻め落とされ消滅しました。

その後上杉氏から関東から去ると、練馬は後北条氏の統治下となりましたが、この時代に川越と江戸を結ぶ川越街道が開通し、練馬には下練馬宿(現在の東武練馬駅付近)が置かれました。

石神井城跡

石神井川

■3 江戸時代の練馬区

江戸時代の練馬は、江戸に野菜を供給するための農業の村でした。主な産物は大根、ごぼう、じゃがいもなどで、品種改良で生まれた「練馬大根」はたくあん漬に適していたことから非常に人気が高まり、練馬は全国屈指の大根産地となりました。下練馬村には種子屋が軒を連ねており、練馬大根をはじめ、さまざまな種子を売っていたようです。

1696年には「玉川上水」から分水した「千川上水」が開通し、現在の千川通り沿いに練馬を横断しました。千川上水は当初江戸市中の飲用水として使われましたが、流域の20か村からの嘆願を受け、のちに農業用水としても利用されるようになりました。これにより、それまで水が届かなかった石神井川南側の台地上を潤し、練馬の農業発展に大きく寄与しました。

また、江戸時代初期には青梅から江戸市中へ御白土(石灰)を運ぶために青梅街道が開かれ、練馬では関村(現在の関町)を通過し、街道沿いには次第に集落が発達しました。川越街道の下練馬宿でも、新たに「ふじ大山道」(現在の富士街道)が通され、北関東から伊勢原の大山に参拝する人々がここを通りました。

練馬の観光名所としては、石神井の「三宝寺池」が江戸市民の間で広く知られており、浮世絵の題材としてもたびたび描かれました。清冽な水をたたえる風光明媚の地として、多くの人が訪れたようです。

練馬大根の日干し風景(1935年頃)( 写真提供:練馬区)

三宝寺池

■4 明治時代~戦前の練馬区

明治時代、農村だった練馬に変化をもたらしたのは鉄道開発でした。口火を切ったのは1915年の「武蔵野鉄道」(現在の西武池袋線)の開業で、同年に練馬駅と石神井駅(現在の上石神井公園駅)が置かれました。その後は沿線の宅地開発とともに、次々と新駅が開業し、駅前に街が発展しました。

1923年に発生した関東大震災の後、都心部から東京西郊に向けての大規模な人口移動が生じ、新駅の周辺に拓かれた住宅地がそれを吸収しました。
その中でも特徴的だったのは大泉学園駅北側の大泉学園町の開発で、1920年代に西武グループの不動産会社が土地を取得して区画整理を行い、その後に大規模な住宅分譲を行いました。戸建てが並ぶ整然とした街並みは、昭和初期の東京市民にとって憧れの住宅地でした。

この人口増を受けて、それまで北豊島郡に属していた練馬の村々は、東京市に編入されることとなり、1932年に板橋区に編入されました。現在の練馬区の区域では、1920年から1940年の20年間で、人口は4倍以上に増えています。

鉄道網の発達にともなって、練馬には農業以外の産業も生まれました。中でも1921年に練馬駅の北側で創業を開始した「大日本紡織練馬工場」は大規模な工場で、のちに「鐘淵紡績練馬工場」となり、最盛期にはフェルト生産の国内シェア3分の1を占めるほどでした。

また、大泉には1935年に「新興キネマ東京撮影所」(のちの「東映東京撮影所」)が京都から移転する形で誕生し、日本の映画草創期に数々の名作を残しました。

練馬駅(1955年頃)(写真提供:練馬区)

鐘淵紡績練馬工場(1956年頃)(写真提供:練馬区)

■5 戦時中~戦後の練馬区

戦争が終わって1947年3月、東京では35区から22区へと特別区が整理されましたが、練馬は引き続き板橋区の一部とされました。しかし、戦前から続いていた板橋区からの分離独立運動が実を結び、1947年8月に、23区目の区として「練馬区」が発足しました。

戦後の練馬では経済成長にともなう人口増を受けて、宅地化が一気に進みました。中でも大きな変化があったのは、現在の「光が丘」地区でした。1992年までの間に「光が丘団地」と「光が丘公園」が整備されました。

「豊島園」は1951年に西武鉄道が買収したことで遊園地としての性格を強め、「としまえん」となりました。2020年の閉園後の跡地には2023年、「練馬城址公園」と「ハリーポッター スタジオツアー東京」がオープンしました。

また、「東映撮影所」を中心とする映画産業もさかえ、「映画のまち」としてのイメージを確立しました。また、1950年代からは「東映動画」がアニメーションの制作を開始し、日本初の本格アニメーション「白蛇伝」を皮切りに、「鉄腕アトム」「銀河鉄道999」「あしたのジョー」など数々の名作を生み出しました。そのため大泉は「ジャパンアニメーション発祥の地」と言われ、杉並区とともに世界一のアニメ産業集積地となっています。

成増飛行場の搭乗員と面会の女性(1943年)(写真提供:練馬区)

東映動画スタジオ(1980年頃)(写真提供:練馬区)

■6 今後の練馬区

今後もっとも注目すべき開発は、現在「光が丘駅」が終点となっている地下鉄大江戸線の延伸計画です。2023年2月の東京都議会で、大江戸線の大泉学園町までの延伸の積極的検討が採択され、実現すれば練馬西武の鉄道空白地帯に新たな3つの駅が生まれます。
これにより、練馬区北西部と新宿副都心間の移動にかかる所要時間が短縮されるとともに、
新駅予定地を中心とした新たなまちづくりが推進される見通しです。商業施設によるにぎわいと共に、農地や住宅とも共存した暮らしやすい住宅市街地の形成が進むことでしょう。

市街地の開発では、石神井公園駅の南口で再開発が進められており、2027年の完成を予定しています。2023年に「ハリーポッター スタジオツアー東京」が開業したことで、豊島園駅周辺にも新しいにぎわいが生まれることでしょう。

多彩な開発が進められている一方で、緑豊かな自然が身近な環境が、練馬の特徴です。今後もゆたかな森と水辺は維持され、公園にはいつまでも、美しい並木や芝生が見られることでしょう。

光が丘公園

「石神井公園駅南口西地区第一種市街地再開発事業」外観パース

■ミニコラム「東京額縁」

洋画の普及に伴い、日本国内では額縁づくりは19世紀に発展しました。かつては指物、彫刻、塗装などの職人の分業により仕上げていた額縁づくりを、東京額縁は技術の集約で仕上げまで一貫して行います。それにより、様々なオーダーにも応えられる、手仕事の特別な額縁が制作されています。また、特徴である飾り型の模様には、アカンサス、月桂樹の花・葉、波、貝殻、菊の花、葉、唐草などがあります。
練馬区内にも工房があり、作家の作品を飾る額縁はもちろん、オリジナルなミニ額縁など、一般の方も楽しめる額縁を作っています。