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このまちディクショナリー~品川区編~

品川区と言えば、オフィスビルが立ち並ぶ都会的な印象がありますが、暮らす場所としての魅力もあふれる街です。「戸越銀座商店街」や「武蔵小山商店街」など、活気あふれる商店街は、実はそれぞれ都内最長の商店街、都内最長のアーケード商店街でもあります。

品川区は、東部の「東京湾」に近い低地と、西部の「武蔵野台地」からなり、東寄りに「目黒川」が流れます。江戸期には、江戸と西国を結ぶ「東海道」が通り、多くの人々が行き交いました。現在も「京浜国道」「第二京浜」などの幹線道路が通るなど、交通の要衝となっています。写真は南大井付近で「京浜国道」と交差する京急本線です。

なお、現在の品川区は、1947(昭和22)年に旧・品川区と荏原区が合併して誕生しています。ここでは現在の品川区域を「品川エリア」として紹介していきます。

旧東海道品川宿

京浜国道と交差する京急本線

■1 中世までの品川エリア

品川エリアには、縄文時代の遺跡も発掘されるなど、古くから人の営みがあった地です。特に縄文時代後期の遺跡「大森貝塚」は日本初の学術的発掘としても知られます。

この発見には、1872(明治5)年に開業した日本初の鉄道の存在が関係しています。1877(明治10)年、アメリカから来日した動物学者・モース博士は、汽車の車窓から、鉄道建設のため削られた台地の地層を見て「大森貝塚」を発見します。写真は1929(昭和4)年に建立された「大森貝塚」の碑です。ちなみに、大森は大田区の地名ですが、近年の調査では現在の品川区大井六丁目付近が発掘場所と考えられており、周辺は「大森貝塚遺跡庭園」として整備されています。

奈良・平安時代には「品川湊」が「武蔵国」の「国府」(現・東京都府中市)の外港として発展、品川と府中は「品川道」によって結ばれたといわれます。写真の「中延みちしるべ防災広場」には、後世に「品川道」の由緒を伝えるため、2016(平成28)年に品川道の道標が設置されました。

「大森貝塚」の碑

中延みちしるべ防災広場

■2 近世の品川

江戸時代に入ると、品川には五街道の一つ、「東海道」が通ります。「東海道」は江戸と京都・西国を結ぶ最重要な交通路で、品川には江戸を出発して最初の宿場町「品川宿」が設けられました。江戸の出入口として重要な役割を担い、また、遊興地としても繁栄しました。現在も「旧東海道」沿いには「品川宿」当時の面影が残ります。

また、「目黒川」の左岸沿いは、自然豊かな傾斜地で、大名の下屋敷(別荘)も置かれました。品川エリアには岡山藩、仙台藩、鳥取藩の屋敷が置かれ、明治期の華族など有力者の邸宅の時代を経て、現在はそれぞれ「池田山」の住宅地と「池田山公園」、「島津山」の住宅地と「清泉女子大学」、「御殿山」の住宅地として、歴史を引き継いでいます。写真は品川区立の公園「ねむの木の庭」。上皇后陛下の実家であった「池田山」の正田邸跡地を整備した公園で、シンボルツリーのねむの木や、「プリンセスミチコ」と名付けられたバラなど約50種の草花が植えられています。

江戸末期、幕府は「黒船」からの江戸防衛のため、品川沖に8基の「台場」を築きました。現在、「台場公園」(港区)として残る「第三台場」が有名ですが、品川区内の「天王洲アイル」の埋立地には「第四台場」の一部が使われています。また、「品川宿」そばには陸続きの砲台「御殿山下台場」も築かれました。現在、跡地の一部は「品川区立台場小学校」となっています。この、海上に「台場」を築いた技術は、明治期に入ると、海上に築堤(現在「高輪築堤」と呼ばれます)を作り鉄道を引く工事に活かされました。

ねむの木の庭

品川区立台場小学校

■3 明治期の品川エリア

江戸末期に開国を迎えると、品川エリアは江戸・東京と開港場・横浜を結ぶ地となり、多くの外国人も「東海道」を往来するようになります。1872年(明治5)年には新橋・横浜間に鉄道も開業となりますが、品川はそれに先立つ仮開業時の始発駅でもありました。当初の駅の場所は「品川宿」のすぐ北にありましたが、その後、さらに北へ移転したため「品川宿」からは少し離れた位置となりました。そのため、現在の「品川駅」は品川区ではなく港区にあります。

明治後期には京浜電気鉄道(現・京急本線)が開通、「品川駅」(現「北品川駅」)も開業するなど、さらに交通の便が良くなり、品川の海岸沿い一帯は海水浴などが楽しめる行楽地や、別荘地としても発展します。写真は「北品川駅」と「新馬場駅」間の高架上を走る京急本線です。

京急本線

「品川宿」国立国会図書館蔵

■4 工業地として発展した大井町

大井町は明治前期の毛織工場の進出がきっかけとなり、工業地として発展しました。昭和戦前期までには国鉄の「大井工場」、「東京芝浦電気」(現「東芝」)、「真崎大和鉛筆」(現「三菱鉛筆」)、「日本光学工業」(現「ニコン」)などの工場も置かれました。

現在「三菱鉛筆」の工場は移転していますが、本社は大井町にあります。写真は「三菱鉛筆」本社前に設置されているベンチ。鉛筆を作る工程が再現されています。

国鉄「大井工場」は、現在はJR東日本の「東京総合車両センター」となっています。

三菱鉛筆前のベンチ

「東京総合車両センター」

■5 住宅地としての発展と現在

大正期になると、交通機関の発達もあり、特に荏原区内は、住宅地としての「耕地整理」「土地区画整理」も盛んに行われ、東京郊外の住宅地として発展しました。「関東大震災」後は都心部から移住する人も増え、住宅地としてさらに発展、駅前には商店街も発達しました。現在も賑わう武蔵小山や戸越の商店街も、この頃からのものです。

昭和初期に急速に都市化が進むと、1932(昭和7)年に東京市へ編入されることになり、旧・品川区と荏原区が誕生しました。

パルム

戸越銀座

■6 現在の品川区の魅力

終戦後の1947(昭和22)年、旧・品川区と荏原区が合併し、現在の品川区が誕生しました。
「旧東海道」の「品川宿」付近は、江戸時代からの幅の道や、古くからの建物も残り、歴史と伝統を感じることができます。

また、かつては工業地としても発展しましたが、現在は工場も少なくなり、都心に近い住宅地としての役割が主となっています。

臨海部の埋め立て地には、「東京港」のふ頭をはじめ、物流の拠点が拡がるほか、「しながわ区民公園」「大井ふ頭中央海浜公園」「東品川海上公園」など大規模な公園も多く、住民の憩いやレジャーの場、スポーツの拠点になっています。

『東海道五拾三次 品川 日之出』国立国会図書館蔵

東品川海上公園

■7 品川区の未来

「JR東日本グループ」は2023年4月、大規模複合開発「大井町駅周辺広町地区開発(仮称)」に本格着手、2025年度末開業予定となっています。隣接地では品川区の新区庁舎整備も計画されています。シネマコンプレックスや各種テナントが入る商業施設、ホテルなどが整備された複合施設、イベント開催などで活用できるパブリックスペースや鉄道車両を一望できるデッキの整備など、井町エリア全体の新たなにぎわいの創出が期待されています。

また、京急の「北品川駅」~「品川駅」間では高架化工事が進められており、あわせて「北品川駅」では駅前広場の整備が計画されています。

加えて、港区内にはなりますが、北品川のすぐ北に位置する「品川駅」の地下では、リニア中央新幹線の始発駅の建設が進められており、完成すれば山梨県・長野県・名古屋方面へのアクセス性が向上します。

品川区役所から見た「大井町駅周辺広町地区開発(仮称)」

JR東日本 開発街区のイメージ

■ミニコラム 江戸時代からの歴史を伝える「仙台味噌」

江戸前期の1658(万治元)年、仙台藩二代藩主・伊達忠宗(伊達政宗の次男)は大井村(現・東大井四丁目)に2万坪余りの土地を幕府から拝領し下屋敷としました。その後、この地で仙台藩の藩士などのための「仙台味噌」の製造も行われるようになり、江戸末期には江戸の名物としても知られるようになりました。「明治維新」以降も味噌の製造は引き継がれ、現在は「仙台味噌醸造所」となっています。

江戸時代からの歴史を伝える品川区の「仙台味噌」を是非味わってみてください。

仙台味噌醸造所

仙台味噌