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このまちディクショナリー~大田区編~

東京23区の南部に位置し、23区で1番の面積を誇る大田区。東南部の「東京湾」に面した平坦な低地と、西北部の「武蔵野台地」に広がる高台からなります。西側には「多摩川」が流れ、川と海の豊かな自然を身近に感じることができます。江戸期には、江戸と西国を結ぶ重要な街道である「東海道」が通り、多くの人々が行き交いました。現在も「京浜国道」「第二京浜」などの幹線道路が通るほか、「東京国際空港(羽田空港)」も擁するなど、交通の要衝となっています。

なお、「大田」という地名は、1947(昭和22)年に大森区と蒲田区が合併して誕生した大田区を由来とする、歴史的に見ると新しい地名ですが、ここでは現在の大田区域を「大田エリア」として紹介していきます。

東京国際空港

多摩川

■1 古代までの大田エリア

大田エリアには、縄文時代の遺跡も多く発見されています。縄文時代は、現在よりも海水面が高く、内陸の「武蔵野台地」の方まで海が入り込んでいました(海進と呼ばれます)。縄文時代の人々は、海産物が収穫できる海に近く、また湧水も得やすい「武蔵野台地」の際(きわ)付近に暮らしたため、この頃の遺跡もそのような場所にあります。明治初期、現在の大田区と品川区の境界付近で発見された縄文時代後期の遺跡「大森貝塚」もその一つです。その後、海進は収まり、現在の海岸線は現在の形に近くなりますが、農耕に便利な低地が近く、湧水も得やすい「武蔵野台地」際での営みは続き、古墳時代には、「多摩川」沿いの「荏原台古墳群」など豪族の古墳も多く造られています。

多摩川台公園古墳展示室

亀甲山古墳

■2 近世までの大田エリア

大田エリアには、日蓮上人に関連する史跡も残ります。鎌倉時代後期の1282(弘安5)年、日蓮聖人が池上(のちの「池上本門寺」)に向かう途中、灌漑用の「千束の大池」で足を洗ったという伝説から「洗足池」の漢字になったともいわれます。

江戸時代に入ると、大田エリアには五街道の一つ、「東海道」が通ります。「東海道」は江戸と京都・西国を結ぶ最重要な交通路です。大田エリア内には宿場町は設けられませんでしたが、六郷は「多摩川」を渡る要衝となります。江戸初期に「六郷大橋」が架けられますが、何度も流された結果、江戸中期以降は架橋は諦められ、渡し船「六郷の渡し」が設けられました。

江戸期には、大森などの海岸で海苔の養殖が始まり、徳川将軍家にも献上されるようになります。戦後、海岸の埋め立ての進行などにより、海苔の養殖は行われなくなりますが、現在も多くの海苔のメーカーや問屋が残ります。

洗足池

大森 海苔のふるさと館

■3 明治期の大田エリア

江戸末期に開国を迎えると、大田エリアは江戸・東京と開港場・横浜を結ぶ地となり、多くの外国人も「東海道」を往来するようになります。1872年(明治5)年には新橋(仮開業時は品川)・横浜間に鉄道も開業となりました。当初、大田エリアには駅が設けられていませんでしたが、1876(明治9)年、「大森駅」が開業となります。翌1877(明治10)年、アメリカから来日した動物学者・モース博士は、この汽車の車窓から、鉄道建設のため削られた台地の地層を見て「大森貝塚」を発見することになります。
明治後期には京浜電気鉄道(現・京急本線)も開通するなど、さらに交通の便が良くなり、大田エリア一帯は海水浴場・鉱泉・景勝などが楽しめる行楽地や、別荘地としても発展します。

大森貝墟碑と京浜東北線

『大森介墟編』1879年エドワード・シルベスター・モース(国立公文書館蔵)

■4 蒲田の産業

蒲田は、明治後期の「蒲田菖蒲園」開設で賑わいを見せ始め、大正期に「松竹」の「蒲田撮影所」が開所すると、映画関係者が集まる華やかな街となります(撮影所は1936(昭和11)年に大船へ移転)。写真は「蒲田撮影所」跡地にある「松竹橋」のレプリカで、正面が「大田区民ホール・アプリコ」、左上のビルが「ニッセイアロマスクエア」です。「松竹橋」は、元は撮影所前に架かっていた橋で、1986(昭和61)年に制作された映画『キネマの天地』で再現したものが保存されています。

大正期以降、一帯には大規模な工場が続々と開設され、下請けの町工場とともに、工業の町としても発展します。戦後も「ものづくりのまち」としての役割は引き継がれ、「蒲田駅」周辺は多くの住民や労働者が集まる商店街・繁華街が発達しました。写真は「京急蒲田商店街あすと」のアーケードです。

松竹橋

京急蒲田商店街あすと

■5 羽田の歴史

江戸時代の羽田は農村・漁村で、特に魚を将軍家に納める「御菜八ヶ浦」の一つにもなるなど、漁業が盛んな地でした。江戸後期になると「鈴木新田」が開墾され、明治期に入ると「鈴木新田」内の「穴守稲荷神社」周辺が行楽地として発展しました。昭和初期、立川から「東京飛行場」が移転してきたことで空港としての歴史が始まり、戦後に「東京国際空港」となりました。その後も拡張が進められ、現在は世界でも有数の発着回数を誇る空港となっています。一方、「穴守稲荷神社」は、戦後の空港の拡大に伴い、現在地に遷座しました。

穴守稲荷

羽田空港

■6 住宅地としての発展と現在

大正期になると、交通機関の発達もあり、東京郊外の住宅地として「洗足」「田園調布」「山王」などのエリアで分譲が行われました。さらに、1923(大正12)年に「関東大震災」が発生すると、被災者など、多くの人々が東京近郊への移り住むようになり、大田エリアの人口も著しく増加。急速に都市化が進んだことから、1932(昭和7)年に東京市へ編入され、大森区と蒲田区が誕生しました。また、震災後、山王周辺には文士・芸術家なども多く移り住むようになり、この地で交流が深められ、文化的にも発展しました。

田園調布駅

馬込文士村の住人のレリーフ

■7 現在の大田区の魅力と未来

終戦後の1947(昭和22)年、大森区と蒲田区が合併し、一文字ずつとって大田区が誕生しました。

現在の大田区は、田園調布をはじめとする閑静な住宅地、「多摩川」・「洗足池」周辺などの豊かな自然、蒲田・雑色などの充実した商業地・商店街、「旧東海道」沿いや「池上本門寺」周辺などの歴史的な街並みなど、魅力の異なる様々なエリアで構成されています。また、大田区は「ものづくりのまち」としても知られ、統計的にも、工場数、製造品出荷額などは東京23区で1位となっています。高い技術を持つ町工場も多く、日本の工業を支えて続けています。

東京23区内は、総じて鉄道・道路の整備は進んでおり、世界的に見ても利便性が高い都市と言えますが、さらに大田区は、世界有数の規模を誇る空港「東京国際空港」も擁しています。飛行機は、早朝・深夜は運賃が割安になることも多く、自宅が空港に近ければ、このような便は利用しやすくなります。

以上のような、多様な地域性と、高い交通利便性は現在の大田区の魅力を構成する要素の一部といえるでしょう。

また、大田区内では、現在、JR東日本による「羽田空港」と「新橋」を結ぶ「羽田空港アクセス線(仮称)」の建設が進められているほか、「新空港線(蒲蒲線)」整備も検討されています。
「蒲田駅前東口駅前地区」の再開発やJR「蒲田駅」の東西自由通路新設、「大森駅西口広場」の新設も進められており、今後、より便利なエリアになることが期待されています。

「蒲田駅前東口駅前地区」の再開発

「羽田空港アクセス線(仮称)」の工事区間位置と運行概要

■ミニコラム 金属加工技術を活かした商品

大田区の町工場には、高い金属加工技術で日本の工業を支える所も多くあります。大田区が選定する「大田のお土産100選」の中には、こうした高い金属加工技術を活用した「精密独楽」などの製品も含まれますので、こうした製品を通して、普段の生活では感じることが少ない、大田区の町工場の技術を感じてみてはいかがでしょうか。

大田区産業プラザPiO

写真は大田区の工業を始めとする産業支援の拠点施設として設置された「大田区産業プラザPiO」です。