LanguageLANG
Column

このまちディクショナリー~豊島区編~

豊島区は「池袋駅」を中心に山手線の内側と外側に広がる区で、目白、大塚、巣鴨、駒込などの街を含んでいます。地理的にも経済的にも中心になっている池袋駅は、JR東日本の広報によると新宿駅に次ぐ、国内第2位(2000年~2021年度)の乗数人数を誇るメガステーションです。JR線以外にも、西武各線をはじめ、各地への鉄道の発着駅となっています。

豊島区の人口は23区中14位ですが、人口密度では1位(2023年4月)。これは、都市機能が駅周辺にぎゅっと凝縮されており、コンパクトに暮らせる街であることを意味しています。また、豊島区の「外国人の住民比率」は23区中2位(2023年4月)。中国、韓国、その他の国籍の区民も多いことから、各国言語での行政サービスが充実しており、「海外からの移住者に優しい区」と言えます。

一方、目白、雑司が谷、西巣鴨、駒込などは江戸時代に大名屋敷だった場所が多くを占め、現在も高級邸宅街が広がっています。また、区内には大学や専門学校も多いため、平日でも若者の昼間人口が多く、街に活気と多様性があふれています。

池袋駅

南池袋公園

■1 近世以前~江戸時代の豊島区

豊島区はなぜ、このような街になったのでしょうか。歴史を辿りながら紐解いていきましょう。

近世以前の豊島区は、「武蔵国豊島郡」と呼ばれた農村地帯の一部でした。古くから集落があったのは巣鴨や西巣鴨で、江戸時代前には「洲鴨」「須賀茂」などと記されていました。池袋はかつて何もない低湿地で、鉄道が敷設されるまでは「丸池」という袋のような小さな池が多くある地でした。これが池袋の名の由来になったと言われています。

江戸時代の村域は、上駒込村、巣鴨村、雑司ヶ谷村、下高田村、長崎村、新田堀之内村、池袋村の7村で構成されていました。雑司ヶ谷、鬼子母神堂は1666年に開堂し、安産の神様として参拝されました。門前に茶店や料亭があったといいます。

その後、中山道沿いの巣鴨に街が発達しました。巣鴨は中山道の出発地点日本橋から出発して最初の休憩所で、「地蔵通り商店街」は当時、「巣鴨立場」と呼ばれ、旅人の休憩場所になっていました。

また、江戸時代の巣鴨は品種改良が盛んで、「たねや」が繁盛していました。旅人は多くは地方の農民であり、江戸土産に巣鴨で野菜の種子を買って帰ったといいます。

また、巣鴨の隣の染井には多くの植木職人が暮らしており、武家屋敷の手入れをしながら品種改良を競っていました。その中で生まれたのが「ソメイヨシノ」の桜で、幕末ごろ、オオシマザクラとエドヒガンザクラを交配させて誕生しました。ツツジや菊の栽培もさかんで、「巣鴨地蔵通り」では現在も、11月になると「菊祭り」が開催されています。

雑司ヶ谷鬼子母神堂

巣鴨地蔵通り商店街

■2 明治期~戦前期の豊島区

明治時代、豊島区は鉄道とともに大きく発展しました。まずは1885年に国鉄品川線の「目白駅」が開業し、その後目白から田端方面への連絡線が計画されていましたが、経路が巣鴨監獄(現在のサンシャインシティ)を横切るため北寄りに改められ、1903年に「池袋駅」「大塚駅」「巣鴨駅」が開業しました。「大塚駅」は本来文京区大塚に造られる予定でしたが、西巣鴨に駅ができました。隣に「巣鴨駅」があることから、駅名は当初予定のまま「大塚駅」の名が冠されています。

池袋駅周辺はそれまで原野だったことから、広い土地を利用して発着駅としての整備が進められ、明治末期に「東上鉄道」(1914年)と「武蔵野鉄道(現在の西武鉄道の本流)」(1915年)が池袋起点で相次いで開業し、発展の礎となりました。

駅の開業にともない、目白、西巣鴨、巣鴨、駒込などの駅周辺は住宅地としての整備が進められ、邸宅街が生まれました。また、広い敷地が得やすかったことから明治・大正期には学校も多く移転・開校しており、新宿区四谷から目白に「学習院」が、文京区小石川から西巣鴨に「宗教大学」(現在の大正大学)が、中央区築地から西池袋に「立教大学」が移転しました。また、西池袋には「豊島師範学校」(学芸大学の前身)が新設され、文教の街としての性格を高めていきました。

大正末期、豊島区は人口の急増期を迎えます。1923年の関東大震災では東京東部の被害が大きかったため、家を失った人々が豊島区に多く移住しました。この人口増を受け、1932年、北豊島郡に属していた巣鴨町、西巣鴨町、高田町、長崎町が統合し、「豊島区」が誕生しました。北豊島郡がなくなることを踏まえ、4つの町の協議の結果「豊島」の名を残す区名となりました。

1925年頃の池袋駅

学習院大学

■3 戦後から現在まで

第二次世界大戦後はそれぞれの街で復興が進みましたが、最も大きな変化があったのは、鉄道網のハブとしての機能を高めた池袋駅エリアでした。鉄道を使って人々が池袋駅周辺に集まり、飲食店を中心とした闇市のお店が立ち並び、人々は復興に向けての活力を取り戻していきました。

1964年に移転した「豊島師範学校付属小学校」の跡地には一部が「池袋西口公園」として整備され、のちに、残りの部分に「東京芸術劇場」が建てられました。「東京芸術劇場」が建てられた1990年前後から、豊島区は池袋駅エリアの「国際アート・カルチャー都市」構想を進めており、さまざまな開発が現在進行形で進められています。その手始めとして、2015年には「池袋西口公園」が改装され、公園内に野外劇場「グローバルリング シアター」が誕生しました。

文教のエリアであった池袋駅西口側に対し、東口側は戦前から商業の集積地でした。戦後、東口にあった「菊谷デパート」は「西武百貨店」に生まれ変わり、池袋駅のシンボルとなりました。焼け野原だった東口駅前は、西口側よりも先に復興が進み街の中心になっていきました。

また、池袋駅と大塚駅の中間辺りには日本最大規模の「巣鴨刑務所」があり、「巣鴨プリズン」と呼ばれ重要戦犯を収監していましたが、1971年に役割を終えて閉鎖され、跡地が「サンシャインシティ」として再整備されました。中核となる「サンシャイン60」の竣工は1978年で、この当時は日本一の高層ビルでした。

2000年代になるとサブカルブームで池袋駅東口側に関連ショップが集積し、多くの若者でにぎわうようになりました。さらに、2010年代には中池袋公園周辺で再開発が行われ、区役所が移転し、跡地にはシネコンやホールが入る「Hareza Tower」などのビル群が開業しました。このあたりは現在も最先端の娯楽集積エリアとして、進化を続けています。

池袋駅以外の各駅周辺については、変化の度合いはずっとゆるやかで、今でも昭和時代の下町風情がよく残っている地域が多くあります。「大塚駅」や「鬼子母神駅」を通る「都電荒川線」は東京で唯一の路面電車で、昭和から使われているレトロな車両が現役で走っています。雑司が谷の古い町並みや社寺、「おばあちゃんの原宿」とも言われる「巣鴨地蔵通り商店街」も、レトロさを求めて散策するには最適な場所です。「最先端都市と下町の二面性」こそが、豊島区の面白さではないでしょうか。

ローバルリング シアターと東京芸術劇

大塚駅の都電

■4 今後の豊島区

今後の豊島区でもっとも注目すべきは、やはり池袋エリアです。池袋駅の東西両側では大規模な再開発事業が進行中であり、今後数年のうちに、駅の東西が2本の歩行者専用デッキで接続され、西口側には4本の高層タワーが生まれ、東西それぞれに広い駅前広場が設置される予定です。また、東口側では明治通りの道筋が大幅に変更され、バイパスルートに付け替えられます。ますますのにぎわいに期待が高まります。

これらを含む池袋の変化は、この10年ほどの渋谷の変化に匹敵する規模になるとも言われており目が離せません。まもなく生まれる「新しい池袋」は、いよいよ名実ともに「国際アート・カルチャー都市」となることでしょう。

西池袋駅前通り

サンシャインシティ

■5 ミニコラム 東京三味線

豊島区には和楽器のひとつ、「東京三味線」の製造・販売をする工房がいくつか存在しています。三味線は中国にルーツを持ち、琉球を経て室町時代に日本に入りました。猫皮を張り、琵琶の平たい撥(ばち)で演奏する点が特徴で、江戸時代に庶民の間で大流行したことから、江戸でも多く製造されました。

現在は職人の数も少なくなりましたが、巣鴨の「さゝや三絃店」では三味線製作と修理を、要町の「柏屋楽器店」では製作・販売・修理を行っています。柏屋楽器店では実際に実物を見ることもできます。

東京三味線