杉並区は東京23区の西部にある区のひとつで、北は練馬区、南は世田谷区に接しています。区内にはJR中央線、西武新宿線、地下鉄丸ノ内線、京王井の頭線、京王線の5つの鉄道路線があり、中でも中央線沿いの街が発達し、荻窪、阿佐ヶ谷、高円寺が杉並の三大タウンとなっています。
面積は23区中で8番目の広さで、人口は約57万人(2022年)で6番目、人口密度は13番目となっています。「治安の良さランキング」(「令和3年度区町村別犯罪件数データ」より)では文京区に次ぐ2位となっています。区職員(警視庁警察官OB)や委託業者の警備員で構成される安全パトロール隊によるパトロールも、暮らしの安全を支える活動となっています。
中杉通り
1958年阿佐ヶ谷駅南(写真提供:パールセンター商店街 歴史資料室)
■1 先史時代の杉並区
古代の杉並は森と原野に覆われ、人が暮らしていたのは川沿いの微高地でした。杉並には善福寺川、神田川、井草川、妙正寺川、桃園川などの自然河川が台地に谷を作り、これらの川に沿うように、縄文から弥生時代の遺跡が発見されています。
もっとも大規模なものは「高井戸東遺跡」(現在の「高井戸地域区民センター」)で、約2万8千年前の石斧が発見されています。神田川沿いの「塚山遺跡」と善福寺川沿いの「松ノ木遺跡」では竪穴式住居が再現され、当時の生活の様子を知ることができます。
塚山遺跡
塚山遺跡復元景観図
■2 中世(奈良時代~江戸時代以前)の杉並区
古代律令期の7世紀頃には、武蔵国府(府中)と下総国府(市川)を結ぶ古代官道が、杉並を通過していたと考えられています。古文書に「乗潴」(ノリヌマ)と記された宿駅が、荻窪の天沼(アマヌマ)の由来になっているという説があります。
8世紀には荻窪の地名の由来となった「光明院」が、9世紀には「荻窪八幡神社」が建てられ、付近の農民の信仰を集めました。「大宮八幡宮」は、平安時代に源頼義が奥州に向かう途中で立ち寄り祈ったとされる地で、1063年に創建されました。
鎌倉時代になると、鎌倉を起点とした「鎌倉街道」が各地に向けて整備され、杉並にもその一つが縦断しました。経路は現在の神田川鎌倉橋から、大宮八幡宮を経て阿佐ヶ谷駅へ抜ける道筋でした。
鎌倉時代には各地で荘園(貴族や社寺の私有地)が発達し、荘園の自衛組織である武士団が生まれました。杉並は江戸氏の家臣であった「あさかや殿」の支配地となり、これが現在の「阿佐谷」の地名の由来です。また、鎌倉街道の道筋にあたる善福寺川沿いには「成宗城」があったとされます。善福寺川が堀の役目や水運の手段としても機能していたとも考えられます。
大宮八幡宮
鎌倉街道碑
■3 江戸時代の杉並区
江戸時代になると、杉並は江戸幕府の天領、旗本領、寺社領になりました。農村集落にも自治の仕組みが生まれ、江戸中期の杉並には20以上の村があったとされています。
青梅街道は江戸初期に、江戸城を建築するための御白土(石灰)を青梅の成木地区から運ぶ道として整備されました。そのため別名で「成木街道」や「御白土街道」とも呼ばれ、杉並では荻窪に宿場が置かれました。
また、同じく江戸時代に高円寺で青梅街道から分岐する「五日市街道」も整備され、五日市産の「伊奈石」が運ばれ、江戸城建設に使われました。のちに江戸の人口が増えると、五日市の上流の檜原で生産される木炭や薪を主に運ぶ道となりました。
江戸時代の中ごろになると、林野が開拓され新しい農地が生まれ、杉並は江戸市中に野菜や雑穀を供給する食糧拠点となりました。この発展に大きな役割を果たしたのが、河川などから田や畑に水を引き人工的に給水や排水をする、灌漑の整備でした。
1653年、杉並の南端部に江戸へ飲用水を供給する「玉川上水」が完成し、のちに玉川上水から分水する形で「千川上水」が開削され、さらにこの千川上水に対して、杉並の6つの村は農業用水の分水を求めました。その結果実現したのが、1710年に開通した「六ヶ村分水」(「半兵衛・相澤堀」とも)で、青梅街道沿いに流れ、杉並の農業に大きな発展をもたらしました。
野菜の生産が増えると江戸市中との往来も増え、街道沿いには農家や商家が軒を連ねるようになりました。しかし一歩入るとまだ原野も多く残っており、特に荻窪の南側一帯には低湿地が広がり、将軍家の鷹狩場となっていました。鷹狩の際、休憩をするため、徳川家斉が下荻窪村の名主を務めていた中田家の屋敷に武家長屋門をつくらせました。同地は1883に埼玉・飯能で近衛兵の演習の統監に向かう明治天皇が屋敷の離れを休憩所として使用しました。
また、江戸時代の中期以降は「堀之内妙法寺」が厄除けの寺として人気を集め、多くの参詣者が訪れました。その人気は「東の浅草寺、西の妙法寺」と言われるほどで、江戸っ子からは「堀之内のおそっさま」と呼ばれていました。
妙法寺
武家長屋門と「明治天皇荻窪御小休所」の碑
■4 明治時代~戦時中の杉並区
明治維新後、杉並は東京府豊多摩郡の一部となり、1932年に杉並町、和田堀町、井荻町、高井戸町が合併して「杉並区」が誕生しました。
明治時代、杉並では鉄道が次々と敷設されました。最初に開通したのは1889年の「甲武鉄道」(現在のJR中央線)で、1891年に「荻窪駅」が開業しました。
次に開業したのは青梅街道を走る路面電車の「西武軌道」(のちの都電杉並線)で、1921年に開業し、新宿までの区間を結びました。西武沿線では「西武村山線」(現在の「西武新宿線」)が1927年に開業し、同時に「下井草駅」「井荻駅」「上井草駅」が開設しています。
これらによる交通利便性の向上は、人口増や駅前などの商業の発展を支える要素となりました。
この1920年代は、杉並史上最大の人口急増期となりましたが、その背景には1923年の関東大震災の影響があります。震災後、東京中心部から郊外地域への人口移動が進み、杉並にも、畑や空き地が多かったことなどから、多くの人が移り住んできました。郊外地域のなかでも、現在の杉並区周辺と品川、荏原中延周辺の人口増加は大きく、震災前後でこの地域全体500%を超える人口増加となりました。
この時期、阿佐ヶ谷や荻窪には学者や作家が多く転居し、のちに「阿佐ヶ谷文士村」と言われる礎となりました。井伏鱒二を中心とした「阿佐ヶ谷会」などのコミュニティも生まれ、作家同士が交流を重ね、数々の名作を生み出す原動力となりました。また、中央線南側の荻窪や西荻窪は富裕層の別邸地として好まれ、近衛文麿、大田黒元雄、棟方志功などが暮らしました。
吉祥寺と渋谷を結ぶ「京王井の頭線」が開業したのは1933年で、その後、久我山や浜田山にも新しい住宅地が発展していきました。
杉並の北西部にあたる井荻村は、1920年頃まで養蚕業(蚕を飼育し、その繭から生糸(絹)を作る産業)で栄えましたがその後は景況が悪化し、村長だった内田秀五郎は1925年から大規模な区画整理事業に着手し、農村から住宅地への大転換を成功させました。
また、内田は群馬県太田市にあった「中島飛行機」の工場誘致にも関わり、1925年、桃井に「中島飛行機東京製作所」が置かれ、大きな雇用を生み出しました。「中島飛行機東京製作所」はその後移転し、跡地は「桃井原っぱ公園」として整備されています。
蚕糸の森公園(蚕糸試験場の跡地につくられた公園)
桃井原っぱ公園
■5 戦後の杉並区
終戦後の杉並では、経済成長と東京一極集中により、各駅周辺から外側に向けて、いっそうの宅地化が進みました。交通インフラも拡充され、1961年には営団地下鉄荻窪線(現在の丸ノ内線)が開通し、「都電杉並線」は1963年に廃止されました。
中でも中央線の各駅は、都心に近いわりに物価が安かったことなどから、地方から上京した若者が好んで暮らし著しく変貌し、街ごとのカルチャーが生まれました。高円寺駅の周辺にはフォークやロック、演劇などの大衆カルチャーが育ち、のちに古着文化も浸透しました。
荻窪駅周辺は交通利便性の高さから、杉並で一番の商業地として発達しました。駅前には終戦後、広範囲に闇市が発達し、その名残で現在も多種多様な個人商店が息づいています。一方で、「杉並公会堂」を中心にクラシック音楽の文化が根付いていたり、アニメーション産業が全国でトップレベルの集積度だったりと、多彩なカルチャーが集まる街です。
阿佐ヶ谷駅周辺は、杉並を象徴する穏やかなにぎわいのあるエリアで、中でも「阿佐谷パールセンター」が商業の中心となっています。ここは1954年に「東京都初の歩行者天国」となったことでも知られ、1954年から約70年続く「阿佐谷七夕まつり」は、杉並の夏の風物詩です。近年の阿佐ヶ谷は「ジャズの街」としても知られています。
1955~1965年頃の阿佐ヶ谷商店街の様子(写真提供:パールセンター商店街 歴史資料室)
阿佐ヶ谷七夕まつり
■6 今後の杉並区
今後の杉並区では、交通インフラの面で特に大きな変化が見込まれています。区の南部では「東八道路」の未通部分が2019年に開通し、今後はその脇に「中央道高井戸下り入口」が整備されます。これまで下り路線の入り口がなかった不便が解消され、利便性が向上します。また、西武新宿線と京王線では立体化事業に着手しており、京王線は2030年、西武新宿線は2038年の事業完了を目指しています。
阿佐ヶ谷駅北東側や、西荻窪駅の北側では小規模な再開発も予定されています。どちらも当初の行政主導案ではなく、住民主導の新しい事業計画で始動しています。こういった側面も、知性や個性、そして住む街に対する誇りと愛着を持つ人々が集う杉並ならではとも言えるのではないでしょうか。
進む開発もありながら、風致地区(水辺や緑など良好な自然的景観を保持することにより、都市環境の保全を図るために指定された地区)にも指定されている「善福寺川緑地」や「和田堀公園」といった美しい環境も、今後も続くこの街の風景であることでしょう。
高井戸入り口予定地
善福寺川緑地
■ミニコラム「東京扇」
宮前にある「順扇堂」は、1960年の創業以来、扇子一筋で親子2代、60年以上続いている江戸扇子の専門店。伝統的な絵柄の江戸扇子を数多く取り扱っており、「地紙」と呼ばれる紙に折り目をつけるところから手作りで仕上げています。
江戸扇子は骨数が多く華やかな絵柄の京扇子に比べ、骨が少なくスッキリとした絵柄で丈夫なことから、舞踊やお祭りでよく使われます。
「順扇堂」ではリーズナブルな夏扇子から、色鮮やかな舞扇子、現代風のイラストを江戸扇子に昇華させたものなど、多彩な扇子を取り揃えながら、オンライン販売で世界に扇子の魅力を発信しています。