江戸川区は東京23区のうち南東端にある区で、荒川と江戸川に東西を区切られ、南端には東京湾と、三方が川と海に面した地域です。親水公園や川沿いのサイクリングロード、スポーツなど、自然豊かな水辺とともに暮らせる環境が広がっています。
江戸川区は「一人あたりの公園の広さ」が特徴の区でもあります。23区中2位(2022年4月1日時点)ですが、1位は夜間人口が少ない千代田区なので、実質的には23区トップと言えるでしょう。臨海部に葛西臨海公園をはじめ広い公園が多くあり、荒川と江戸川沿いにも公園、緑地、スポーツ施設が整っています。こうした広々と、のびのびとした環境は江戸川区の大きな魅力です。
それでは、江戸川区の歴史を紐解いていきましょう。
江戸川区の風景(中川ふれあい橋)
葛西臨海公園
■1 先史時代の江戸川区
江戸川区に人が暮らし始めたのは、弥生時代の末期頃と考えられています。かつては海の底でしたが、約3000年前頃から、海の後退や地盤の隆起とともに、川が運んだ土砂などで陸地化が進み、人々が暮らし始めています。
最も古い住居の痕跡は北小岩にある「上小岩遺跡」で、古墳時代前期の集落の跡と考えられています。東海地方で多く出土している土器が見つかっていることなどから、東海地方との交流があったことがわかっています。
上小岩遺跡
上小岩遺跡
■2 中世(奈良時代~江戸時代前)の江戸川区
8世紀から10世紀にかけて、江戸川区は下総国(現在の千葉県北部、茨城県南西部、東京都東部)の葛飾郡に属していました。広大な葛飾郡のうち、現在の江戸川区・葛飾区にあたる一帯は「大嶋郷」と呼ばれており、大嶋郷にあった甲和里(こうわり)という集落が、江戸川区の「小岩」の地名の発祥と考えられています。
この頃一帯を統治した豊島氏は、大嶋郷の村々を伊勢神宮に寄進して荘園(貴族や社寺の私有地)化します。この荘園は「葛西御厨(かさいのみくりや)」と呼ばれ、伊勢神宮の保護のもとで成長していきました。現在の江戸川区内に「天祖神社」が多く見られるのは、この御厨時代の名残です。
現在もこの地に残る「元佐倉道道標」は、かつての道標が移設保存されたものです。
江戸と房州佐倉を結ぶ「佐倉道」と、塩の産地だった行徳と各地を結ぶ「行徳道」の交差点の四股で使用されていました。
天祖神社
元佐倉道道標
■3 江戸時代の江戸川区
江戸幕府が成立すると、葛西御厨はほとんどが天領(幕府の土地)となりました。天領となった江戸川区では新田開発が積極的に行われ、未開地だった場所が次々と水田に変わりました。宇喜新田、伊予新田、一之江新田などが代表的なものでした。一之江新田の名主を代々つとめてきた田島家の屋敷は、「一之江名主屋敷」として現在公開されています。
また、江戸時代には新川(船堀川)が物流で重要な役割を果たしていました。江戸時代初期に「利根川の東遷」という大事業が行われ、東北や蝦夷からの荷物は房総半島を迂回せず、銚子から利根川を遡り、関宿(野田)を経て江戸川(太日川)を下ることができるようになりました。
これらの船が、江戸川の河口付近で人工的に掘り下げられた新川(船堀川)に入り、中川を横切り小名木川を経て、江戸市中に運ばれました。また、新川は江戸の最初期に行徳の塩を運ぶために整備された川で、江戸の人々を生かすための生命線でした。
この舟運を生かして江戸へ野菜も運ばれており、区内では葉物野菜も多く生産されました。そのひとつが小松川の名を冠する「小松菜」で、その名は8代将軍の徳川吉宗が、鷹狩でこの地を訪れた時に命名したとされています。
当時の海岸はきれいな瀬が広がっていたことから、冬から春にかけては海苔や貝類もよく採れ、江戸に運ばれました。「浅草海苔」として知られた葛西の海苔は高級品として珍重されていました。
陸の街道では元佐倉道、行徳道、岩槻道が区内を通っており、多くの人や物資が行き交いました。特に元佐倉道は江戸と千葉方面を結ぶ主要な道として機能し、小岩の関所を経て江戸川を渡り、市川へと伸びていました。
一之江名主屋敷
小岩関所跡
■4 明治時代~戦前の江戸川区
明治時代に入っても、江戸川区地域の基幹産業は相変わらず農業と漁労であり、米、野菜、花、レンコンなどの農産物と、魚、海苔、貝類などが主な産品でした。江戸時代の末期頃からは、和傘づくりも盛んになっています。
鉄道の開通により、産業構造に変化が生まれます。1899年に総武線が開通し、平井駅と小岩駅が誕生すると、駅の周辺に商業地と住宅地が急速に発展していきます。1912年に京成電車の押上~江戸川間が開通するとその流れは加速し、さらに1923年の関東大震災を機会に都心部から多くの人が江戸川区に避難・定住し、人口は増え続けました。
この人口増加を受けて農業から工業へのシフトも進み、区内各所に小規模な工場が数多く創業しました。また、1910年から1930年にかけて行われた「荒川放水路」の事業が完了し、内水氾濫を防ぐ水門と舟運を維持する閘門(こうもん)などが完成。江戸時代から記録に残る水害は約 250回とまで言われている低地帯がゆえの浸水リスクは大きく減少し、低地にも多くの工場ができました。
また、新たな特産品として明治時代に金魚の養殖が始まり、豊富な水を生かして区内各所に多くの業者が生まれました。品種改良もさかんに行われ、「江戸川琉金」など独自の品種も生まれました。現在でも、江戸川区は全国有数の金魚産地として知られています。
金魚(江戸川区特産金魚まつり)
かつて水位調整に使われていた「小松川閘門」(現在は小松川公園内に保存)
■5 戦後の江戸川区
江戸川区にとって、水は脅威であるとともに恵みでもありました。その脅威を取り去るために、明治から昭和にかけて、1919年の江戸川放水路の開削、1930年の荒川放水路の完成、1963年の新中川の開削と、国家事業レベルのさまざまな治水事業が行われ、江戸川区は安心して暮らせる街、工業に適した街へと変化していきました。
戦後の時代は、その成果が花開いた時代とも言えます。1969年には東京メトロ東西線が開業し、かつて海岸線近くだった場所に、葛西駅が開業しました。1970年代には海岸沿いの南葛西(堀江町)や西葛西(小島町)に大規模な集合住宅が開発され、多くの人が住む街へと変わりました。
また、「葛西沖」と呼ばれていた地区では1972年から大規模な埋立事業が行われ、1983年までに「清新町」と「臨海町」という新しい陸地が生まれました。その後は20年間におよぶ整備事業が進められ、清新町には主に住宅団地が、臨海町には主にトラックターミナルや卸売市場などが造られ、東京と全国を結ぶ物流拠点の一つとなっています。
また「葛西臨海公園」と「葛西海浜公園」もこの事業から生まれたもので、1988年のJR京葉線開業とともに「葛西臨海公園駅」が新設され、首都圏全域から多くの人が訪れる場所となりました。海浜公園の「西なぎさ」は潮干狩りや海水浴が楽しめる場所として整備され、「東なぎさ」は生態系を保存する“手つかずの地”とされ、2018年にはラムサール条約湿地に指定されるなど、国際的にも高く評価されています。
江戸川区の風景
葛西海浜公園内の人工干潟「西なぎさ」
■6 今後の江戸川区
今後の江戸川区は、それまでの下町、工業地域としての色合いから、ますます「家族で暮らす便利な街」という方向にシフトしていくことでしょう。
小岩駅周辺では南北側ともに大規模な再開発計画が進んでおり、あと数年ののちには、駅の南北にタワーマンションが建つ近代的な街並みに生まれ変わる予定です。北口の「JR小岩駅北口地区第一種市街地再開発事業」では、駅からペデストリアンデッキで直結する地上30階地下1階建の建物が竣工予定です。住宅、商業施設、保育所などの設置が予定されています。
また、船堀駅北側でも再開発予定が進んでおり、高層ビルが2棟建てられる予定です。そのひとつには江戸川区役所が移転する予定で、これが完成する2028年ごろには、江戸川区の姿も大きく変わることでしょう。
また、江戸川区では2021年の東京オリンピックを機に「カヌーの街」としてのプロモーションを進めており、葛西臨海公園内の「カヌー・スラロームセンター」をはじめ、「新左近川親水公園」や旧中川沿いの「大島小松川公園」にカヌー関連施設が整備されています。今後は世界的な大会なども開かれ、海外からの来客も増えることでしょう。
江戸川区の魅力は、運河や海などの水辺のある風景と、便利な鉄道網と道路網です。こうした住環境が東京都心から10キロ圏内あるのは希少で、暮らす街としての注目度が高まっています。今後もこの流れは加速していくはずです。
JR小岩駅北口地区第一種市街地再開発事業(北口通りから見た商業施設完成予想CG)
カヌーのある光景
■7 伝統・文化 ミニコラム「江戸風鈴」
日本の夏の風物詩のひとつ、風鈴。江戸川区篠崎には、江戸時代から変わらない伝統的な製法を守り続ける風鈴工房「篠原風鈴本舗」があります。先代の篠原儀治氏から受け継いだ技術を、お弟子さんと家族が守りながら、朝顔や金魚などの伝統的な絵柄から、スイカやサッカーボールなど斬新な形のものまで、さまざまなデザインの風鈴を生み出しています。
江戸風鈴
江戸風鈴