LanguageLANG
Column

このまちディクショナリー~台東区編~

台東区は東京東側の2大タウン「上野」「浅草」を擁する区。浅草は東京を象徴する観光地として知られていますが、江戸時代から大正時代にかけて、江戸一番の娯楽街だったため、多くの文化や芸能がこの地で育まれました。

上野は交通の要衝であり、東京東部の商業の中心地であるとともに、明治時代から現在に至るまで、国立の博物館・美術館・動物園などが集まる文化芸術都市として、国内外から人が集まる場所であり続けています。

また、上野と浅草の周辺には昔ながらの問屋街・職人街が広がっており、厨房用品の合羽橋をはじめ、専門的な道具や素材を買いそろえられる街が幾つも連なっています。いっぽう、区の北部の谷中は古い木造建築や寺社が多く残るレトロなエリアで、近年は散策の街として人気です。
東京有数の繁華街から、文化地区、観光地、問屋街、寺町など、コンパクトな地域に個性的な街が混在する「多様性」が、台東区の特徴といえるかもしれません。

国立科学博物館

合羽橋道具街

■1 先史時代から中世の台東区

台東区の地形は、区名のとおり、「上野台地」と呼ばれる高台の地区と、高台の東に広がる低地の地区に分けられます。約6千年前まで、低地には海水が入り込んでいたため、人々は台地の上で漁労を生業として暮らしていました。そのため、旧石器時代の遺跡は上野台地(現在の上野恩賜公園周辺)に集中しています。「不忍池」はこの時代の入江の跡であり、池のほとりでは貝塚も見つかっています。

その後、気候の変化で海岸線が後退すると、定住地は低地に広がっていきました。しかしこの時代も墓地は高台に造られることが多く、上野台地には古墳時代(3~7世紀)の墓地が多く見つかっています。大半は公園整備にともない消滅していますが、唯一現存する「摺鉢山古墳」は、約1500年前の古墳とされています。

低地に農村集落ができると、信仰対象となる寺社も建てられるようになりました。「浅草寺」(せんそうじ)の原型となった草の堂は、7世紀の創建と伝えられています。

不忍池

摺鉢山

■2 江戸時代の台東区

江戸時代に入ると、それまで未開地が多かった台東区は一気に発展しました。
「浅草」は浅草寺が徳川幕府公認の寺となり、日光や奥州(東北)方面に向かう街道がすぐ脇を通ったことから、門前には土産物などを売る店や茶店が軒を連ねるようになりました。

また、浅草寺の裏側は「奥山」と呼ばれました。名の由来は定かではありませんが、浅草寺の山号である「金龍山」の「奥」にちなむと推定されています。「奥山」には江戸初期から見世物小屋が多く立ち並び、江戸中期には幕府が風紀対策として、江戸市中に幾つもあった芝居小屋(歌舞伎劇場)を奥山に集めたため、歌舞伎の中心地としても栄えました。

上野は、台地上が「上野」、現在の上野駅辺りは谷間の下の低いところにあり、「下谷」と呼ばれました。江戸時代初期には閑散とした郊外地でしたが、徳川三代将軍の時代に、上野台地に「寛永寺」が置かれ、下谷には門前町が生まれました。江戸時代の寛永寺はとても広く、現在の上野恩賜公園一帯がすべて境内地となっていました。門前には宿坊、茶店、菓子屋などが並んでいたようです。

寛永寺の創建にともない、寛永寺裏にあたる「谷中」、には多くの寺が集まりました。「谷中」は、上野と駒込の間にある谷の意が地名の由来です。周辺には石屋・大工・屋根屋・畳屋などの寺社関連の職人が集まり、職人街としての特徴も生まれました。また、この寺町を含む谷中から日暮里の高台は、江戸時代には「ひぐらしの里」と呼ばれており、下町を見渡せる景勝地として大変人気があったそうです。
この高台から見下ろせた地は「根岸」で、文人や画人の別荘地として、ひそかに愛された地域でした。江戸時代中期に、京都から美しい声のウグイスを持ち込み放鳥したという話から「鶯谷」の別名でも呼ばれ、現在は山手線の駅名として使われています。

浅草寺への参道「仲見世通り」

寛永寺

■3明治時代~戦前の台東区

明治時代に入り、江戸は東京府となり15区が設置されました。現在の台東区の地域には「浅草区」と「下谷区」の2区が生まれています。
このうち「下谷区」は上野を中心とした地区で、明治初期、寛永寺の敷地は日本初の公園「上野恩賜公園」として整備され、公園内には国立の博物館、美術館、動物園なども作られ、東京市民は新しい時代の到来を堪能しました。

「浅草区」はさらに7つの区に分かれ、そのうちの「六区」に奥山の見世物小屋や芝居小屋が集団移転したため、「浅草六区」が日本一の歓楽街・娯楽街となりました。この時代の浅草六区には、「凌雲閣」という日本一の高層ビルや、歌舞伎や落語の劇場が建ち並び、新しい娯楽として映画館やストリップ劇場も登場しました。大正時代に入ると、「浅草オペラ」と呼ばれる本格的なオペラもブームとなりました。

浅草と上野以外の地域は、庶民が暮らす静かな下町としてゆるやかに発展し、中でも街道沿いの浅草橋、蔵前、花川戸などの地区は、江戸時代の問屋街・職人街を受け継ぎ成長していきました。

根岸は明治時代以降も風流人の別荘地として愛され、森鴎外や正岡子規など、日本を代表する文人も住居を構えました。当時は高級料亭も幾つかあり、彼等の交流の場として繁盛したそうです。隣接する入谷は芸者が行き交う花街としても知られました。

上野恩賜公園

浅草六区

■4 戦後の台東区

1947年、都の行政区画の再編により、浅草区と下谷区は合併し「台東区」となりました。「台東」の由来は、「台」は、上野の高台、「東」は、上野台の東に位置する浅草といった区の地勢によるものです。終戦後、東京には巨大な建築需要が生まれ、上野駅は東北地方からの終着駅であったこともあり、集団就職者、出稼ぎ労働者らでにぎわいました。

こうした労働者の旺盛な需要を支えるために、上野駅から御徒町駅の間には巨大な闇市(非公式の市場)が生まれ、居酒屋などの飲食店街も栄えました。これが現在の「アメ横」の原型となりました。

蔵前、浅草、浅草橋、御徒町などの問屋街も戦後復興における全国的な需要増に支えられ、さらに専門性を増して細分化していきました。現在は合羽橋の厨房用品、花川戸(浅草)の履物、御徒町の貴金属、蔵前の革小物・玩具・文具、浅草橋の繊維・手芸材料・日本人形、新御徒町の仏壇・仏具、末広町の電気製品などがよく知られており、台東区の個性のひとつとなっています。

浅草は、外国人観光客も多く訪れる、東京を代表する観光地の1つとなっています。六区では落語、漫才、マジック、曲芸、浪曲などの生舞台が毎日上演されており、大衆娯楽を楽しめる街となっています。木造の建物や細い路地などがよく残っており、昭和初期の街並みを感じられる街として、近年は「散策の街」として人気があります。

また、台東区には、「旧寛永寺五重塔」や「東京都選定歴史的建造物上田邸」といった歴史的建造物も残ります。
「旧寛永寺五重塔」は1631年に初建された塔で、江戸時代には、第一層には釈迦(しゃか)・薬師(やくし)・阿弥陀(あみだ)・弥勒(みろく)の四方四仏(しほうしぶつ)が祀られていました。現在は上野動物園内にあります。
「東京都選定歴史的建造物上田邸」は、1929年建築の旧忍旅館という旅館だった建物です。
石壁風の外壁は、木造建築でありながら、モルタルを目地に切ったもの。1階から3階の各層を階段状にセットバックし、3階建の上に塔屋が乗っていても圧迫感がないことも特徴の建物です。

アメ横商店街

人力車

■5今後の台東区

浅草は昨今、観光地としてのポテンシャルの高さを再評価されています。宿泊地としてはメジャーとも言えなかった「山谷」や「千束」などにも、宿が続々と生まれ、伝統工芸や芸能を体験するツアーも増えるなど、台東区全域に観光を柱とした、新しい経済の灯が生まれています。

また、逆説的になりますが、渋谷や池袋など、ほかの副都心では大規模な再開発が行われていることが、上野・浅草のレトロさをさらに際立たせ、人々の愛着や注目が増していくことも想定できます。
蔵前や浅草橋は近年、伝統工芸の魅力を引き継ぎながら、若い作り手がこの地区に小さな工房やショップを持つことも増えています。

台東区は日本に来た外国人の多くが訪れる地区であるため、「おもてなし」の心にあふれ、多様性を受け入れる雰囲気があります。外国人観光客はますます増え続けており、今後はインバウンドがもたらす新しい感覚と日本のカルチャーが融合し、さらにクリエイティブに、ユニークに、あらゆる人々が笑顔で過ごせる街へと進化するのでしょう。

ものづくりがテーマの「2k540 AKI-OKA ARTISAN」

浅草のシンボルのひとつ、浅草寺

■6 伝統・文化 ミニコラム「東京彫金」

「東京彫金」は、平安時代以前からあった彫金の技術を、江戸時代中期に江戸職人が「片切彫刻」の技法を編み出し、より高い次元に昇華させたものです。職人は錺(かざり)職人と呼ばれており、鏨(たがね)と呼ばれる彫刻刀を用いながら、金属上に日本画のような繊細なタッチで絵柄を表現していきます。
もともとは刀剣や甲冑の装飾、仏具や神具などに用いられましたが、江戸時代にはキセルや根付などの日用品に使われるようになり、近年は指輪、ペンダント、帯留めなどの装飾品なども登場しています。

東京彫金