現在の墨田区は、大きく分けて江戸時代から江戸の町の一部として発展してきた旧・本所区域と、江戸時代に行楽地として発展し、明治期以降は工業地としても発展した旧・向島区域からなります。1947年、旧・本所区と向島区の区域をもって、墨田区が誕生しました。
古くは江戸の中心部に近い舟運の拠点として、明治期以降は舟運と鉄道貨物と交わる物流の要衝としても発展しました。かつての広大な貨物駅跡地を利用して、現在の墨田区の代表的な施設「東京スカイツリー®」「両国国技館」「江戸東京博物館」などが誕生しています。
現在も、墨田区は江戸時代からの伝統と歴史を守りつつ、さまざまな見どころを提供しています。「隅田川」の美しいリバーサイドの景観や、人気の「隅田川花火大会」、「東京スカイツリー®」を含むレジャー施設や商業施設も充実しています。また、かつて浮世絵師葛飾北斎が暮らした街としての文化芸術の側面も注目されています。
また、都民女性が選ぶ「近所づきあいが活発だと思う東京23区」ランキングで第1位
(2022年度ねとらぼ調査隊)など、暮らす人々の交流も盛んです。幅広い年代の人々に訪れられ、住む人々にも愛される、多彩な魅力を持つ街です。
ここでは旧・本所区域を「本所エリア」、旧・向島区域を「向島エリア」として紹介していきます。
東京スカイツリー®
両国国技館の相撲のぼり旗
■1 近世までの「本所・向島エリア」
「本所エリア」は古くは干潟・湿地帯だったため、古代の史跡は「向島エリア」に多く見られます。例えば、「牛嶋神社」は860年の創建、「木母寺」は976年の創建と伝わり、「木母寺」のあたりは古代東海道の「隅田宿」であったともいわれています。
「本所エリア」では、江戸初期の都市拡大に伴い埋立てが始まり、特に江戸の街の6割以上を焼失した1657年の「明暦の大火」以降、江戸の防災のため街を拡張、「本所エリア」の埋立てがさらに進みました。また、江戸の中心部と「本所エリア」を結ぶ「両国橋」も架橋され、特に橋のたもとの広場は「両国広小路」と呼ばれる繁華街となります。江戸の町の一部となったことで、文化も発展、「葛飾北斎」をはじめ、多くの文化人も暮らしました。
「向島エリア」は「本所エリア」の北に位置します。「向島(向嶋)」とは、江戸期からの繁華街・浅草から見て、「隅田川」の向こう側にある地のことで、風光明媚な郊外の行楽地として栄えました。料理屋もあり、当時の遊興客は、新吉原など浅草側の芸妓と一緒に渡し舟で訪れたといわれます。
「向島エリア」の「墨堤」(「隅田川」沿いの堤防)の桜は、寛文年間(1661~1673年)、四代将軍・徳川家綱が「木母寺」周辺に植えさせたのが始まりで、1717年には、八代将軍・徳川吉宗が庶民の行楽地とするため、100本の桜を植樹させたといわれています。江戸で一番ともいわれる桜の名所であり、人が集いにぎわう地でした。
現在の「隅田川神社」付近にかつて「隅田宿」があった
向島の墨堤の桜
■2 近世の「両国」
江戸初期、幕府は防備のため「隅田川」(当時は「大川」「浅草川」などとも呼ばれた)への架橋は「千住大橋」以外認めていませんでした。「明暦の大火」の際、橋が無いことにより、多くの江戸町民が逃げ場を失い死傷者を出したため、防災を目的として「大橋」が1659年(1661年の説もあり)に架橋されました。また、大火の無縁仏を供養するための寺院「回向院」も建立されました。
「大橋」は、1686年に国境が変更されるまで、「武蔵国」と「下総国」の両国に跨り架かる橋であったことから、一般には「両国橋」と呼ばれました。当時の「両国橋」は木造で、類焼を防ぐため東西の橋のたもとにそれぞれ、火除地として「両国広小路」が作られました。広小路は、建物がない広場であったことから、飲食店の屋台や露天商、仮設の見世物や芝居の小屋などが建ち並ぶようになり、江戸で有数の盛り場としてにぎわうようになっていきます。
武家地を中心とする街として再整備された両国エリアには、旗本・御家人の屋敷が中心でしたが、「弘前藩津軽家上屋敷」など、大名屋敷や、上級旗本の屋敷も置かれました。「赤穂事件」で知られる吉良上野介義央の屋敷も両国に置かれており、「赤穂義士」の討ち入りの現場となりました。
舟運の要衝であったことから、「竪川」(たてかわ)などの運河沿いを中心に職人や商人が暮らす町人地も形成されました。
吉良上野介義央の屋敷は、現在、「本所松坂町公園」として整備されています。討ち入りの日12月14日に毎年行われる「義士祭」ほか、12月の「吉良祭」「元禄市」など、多くの人でにぎわいます。
「隅田川」の「両国橋」周辺では、夏に「夕涼」の期間が設けられ、夜間の料理屋の営業や川遊びが許されました。「夕涼」は江戸前期の延宝年間(1673~1681年)の頃より盛んになったといわれ、1733年の「川開き」からは、毎年大花火(「両国の花火」、現「隅田川花火大会」の前身)が打ち上げられるようになっています。
『東都両国ばし夏景色』(メトロポリタン美術館蔵)
昭和初期の両国橋
■3「本所エリア」の明治期以降の発展
明治初期、「本所エリア」は本所区となり、引き続き東京の中心部として発展を続けます。「相撲」は、江戸期から両国の「回向院」境内の仮設の小屋で興行さるようになり、大人気の娯楽となりました。現在の大相撲へ発展しています。1909年には常設の「国技館」が完成、その後、焼失、再建、接収などを経て、現在の「両国国技館」が1985年に開館しています。
明治中期になると鉄道網の整備も進みます。1894年、総武鉄道が開通し「本所停車場」(現「錦糸町駅」)が開業し、1904年に「両国橋停車場」(現「両国駅」)まで延伸されました。両駅とも舟運が利用できるように造られており、舟と鉄道の間での積み替えが可能な貨物駅として発展しました。
また、東武鉄道も1908年に「吾妻橋停車場」を貨物駅として開業しました。1910年に「浅草停車場」(初代、のちの「業平橋駅」)へ改称しますが、「浅草停車場」といっても「隅田川」を渡る手前で、浅草の対岸に位置していました。広大な貨物ヤードを持ち、東武鉄道沿線から集められた貨物はここから舟運で各地へ運ばれました。1993年に「業平橋駅」の貨物ヤードは廃止となり、この東武鉄道の所有する広大な跡地に、「東京スカイツリー」が建設され、2012年開業に開業しています。
明治期以降、「本所エリア」は工業地としても発展しました。
例えば、「服部時計店」は明治中期、「本所エリア」に製造部門「精工舎」を設け、現在の「セイコー」へ発展しました。現在工場の跡地は複合商業施設の「オリナス」となりました。
「札幌麦酒」(現「サッポロビール」の前身)は「吾妻橋」の東にビール工場を建設し、1903年に醸造が始められました。合併により「大日本麦酒」となったのち、戦後は「朝日麦酒」(現「アサヒビール」)の工場となっています。現在、工場は廃止、再開発されており「アサヒビールタワー」「スーパードライホール」などになっています。
両国国技館
東京スカイツリーとアサヒビールタワー
■4 「向島エリア」の明治期以降の発展
江戸期から風光明媚な遊興の地であった「向島エリア」は、吉原など浅草側の芸妓と一緒に遊興客が渡し舟で訪れました。明治に入ると、見番が置かれるようになり花街としても発展。戦前期に最盛期を迎え、その後、衰退したものの、現在も、都内最大、全国でも最大規模となる芸妓90名を抱えており、花街の伝統・文化を継承しています。
江戸時代には、隅田川や運河の水利の活用もあり、瓦・染色・材木・鋳物などの地場産業が発達、その後、明治期以降は「向島エリア」は工業地としても発展しました。特に大規模であったものとしては、鐘ヶ淵の地名を冠して日本を代表する企業へ成長した「鐘淵紡績」(のちの「カネボウ」)などがあります。
明治期以降、「隅田川」ではレガッタ(手漕ぎボートによるレース)が盛んになりました。特に大学・学校の対校レガッタは1883(明治16)年に始まり盛り上がりを見せました。1900年に発表された瀧廉太郎作曲の「花」を作詞した武島羽衣は、歌詞の中に『上り下りの舟人が 櫂(かい)のしづくも花と散る』と、「隅田川」のレガッタの様子を描いています。
隅田川(中央に映るボートがレガッタ)
隅田川ボート記念碑
■5現在の墨田区と近年の開発
墨田区は、江戸時代から続く職人の伝統と、明治以降の工業発展の歴史を持ち、今日では新たな魅力が溢れる未来へと歩みを進めています。かつての大工場が区外へ移転した跡地には、大規模な住宅地が誕生し、新しい住宅都市としての顔を見せています。しかし、その一方で、中小の工場や伝統工芸の工房が多く残り、ものづくりの街としての魂は今も息づいています。
「両国国技館」「江戸東京博物館」といった人気施設に加え、近年は「東京スカイツリー®」の開業や「すみだ北斎美術館」の開館により、墨田区は観光の新たなハブとして躍進しています。さらに、「国際観光都市すみだ」を目指す取り組みや、地域の情報を活用した「メタ観光」の推進により、墨田区の魅力はさらに広がりを見せています。
隅田川沿いの整備も進み、「両国リバーセンター」の全面開業により、水辺の楽しみが増え、スーパー堤防の整備により安全性も向上しています。これは、自然との調和を大切にしながら、未来への備えも忘れない墨田区の姿勢を象徴しています。
また、東京23区で唯一大学のなかった墨田区には、文花地区の再整備を通じて「情報経営イノベーション専門職大学」や「千葉大学墨田サテライトキャンパス」が開設され、教育の面でも新たな一歩を踏み出しています。これにより、「職・住・学・遊」が調和した新しいまちづくりが進行中で、今後の発展に期待が高まります。
葛飾北斎美術館(墨田区が収集した作品の他、高名な研究者から譲り受けた資料が展示されている)
両国リバーセンター
■6 伝統・文化 ミニコラム「江戸木箸」
現在の墨田区・葛飾区界隈では、大正初期より木箸が作られてきました。主な形状は胴張り(四角形)で、厳選された銘木(黒檀、柴檀、鉄木、つげ、楓等)を素材として、木そのものの良さを生かした箸となっています。
墨田区東向島にある「大黒屋」の創業者・竹田勝彦氏は、1999年に「江戸木箸」を商標登録しており、「大黒屋」の工房・ショップでは、200種類以上の「江戸木箸」を取り揃えています。
美しく機能的な「江戸木箸」の一例
数多くの種類がある