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このまちディクショナリー~荒川区編~

荒川区は東京東部の一角を占める区で、下町の雰囲気の残る地区です。主な街としては、南千住、日暮里、西日暮里、三河島、町屋が挙げられ、区内には8つの鉄道路線が通っているため、都心へのアクセス性に優れています。

昨今はこのアクセスの良さが再評価され、主要駅周辺でマンションが次々と建設されています。2018年には地価上昇率が23区中1位となり、2023年の「東京都住宅地地価上昇率ランキング」でも、東日暮里1丁目が3位、6丁目が6位、東尾久6丁目が9位と、上位に入っています。

その一方で、東京で唯一の路面電車「都電荒川線」や、レトロな区営遊園地「あらかわ遊園」、数多くの銭湯(人口比数で東京都23区内2位。2023年7月)など、昭和レトロな要素も残っており、「下町情緒」も楽しめるのが、荒川区ならではの特徴と言えます。

日暮里駅前

都電荒川線

■1 先史時代から中世の荒川区

荒川区に人が定住したのは約2~3万年前の旧石器時代でした。現在の山手線の外側はほぼ海で、唯一の陸地は「道灌山」と「諏訪台」でした。「道灌山遺跡」からは縄文前期の住居跡、諏訪台にある「延命院」では貝塚が発見され、付近に海岸線があったことがわかります。
その後、弥生時代に入ると低地が陸地化し、台地上に住んでいた人々は低地へ進出し、稲作を始めました。

律令時代(8世紀以降)になると、荒川区の地域は「武蔵野国」の「豊島郡」の一部となりました。集落としては「荒墓郷」(現在の日暮里・谷中)があったと記録されています。
荒川(現在の隅田川)沿いには「渡し」(渡船)が置かれました。渡しの周辺には人や物資が集まり、交通の要衝としての素地が育まれていきました。

南千住の「素盞雄(すさのお)神社」はこのころ、795年に創建されたと伝えられる神社で、以来1200年以上にわたり、荒川区の広い地域に氏子にもつ地域最大の神社となっています。渡しを利用した人々も、この神社で安全を祈願したのでしょう。

道灌山

道灌山

■2 江戸時代の荒川区

16世紀末、徳川家康の江戸入城によって、荒川区の歴史に大きな変化がもたらされました。
1594年、家康の命による街道整備の一環で、橋場の渡しの少し上流に「大橋」が架橋され、荒川の南北に「千住宿」が整備されました。千住宿は荒川の両岸に置かれ、北千住側は「千住宿」、南千住側は「千住下宿」と呼ばれました。ここは陸運と水運の交わる交通の要地であったため、江戸市中へ物資を運び込むための中継地点として栄えました。人口は約1万人と「江戸四宿」の中でも最も発展しました。

千住宿の発展の背景には、江戸初期に行われた荒川上流部の大工事も関係していました。「利根川東遷」と「荒川西遷」というふたつの大事業の結果、それまで暴れ川だった荒川の水量は安定し、舟運が盛んになり、千住宿の発展へと結びつきました。
しかし、街道沿い以外の大部分は相変わらずの農村地帯で、江戸の人口増加にともない、稲作主体から野菜生産主体へと変わっていきました。「荒木田大根」や「汐入大根」、「三河島菜」、「半兵衛豆」、谷中本村(西日暮里)の「谷中生姜」などが有名でした。
また、道灌山や諏訪台などの高台地は江戸市民の行楽地として愛され、高台から見下ろす荒川の景色は、数々の浮世絵などにも描かれています。

現在、南千住の駅前に俳人・松尾芭蕉の銅像が置かれていますが、「おくのほそ道」のスタート地点はこの千住宿でした。1689年3月27日、松尾芭蕉はここから東北へと旅立っていったといわれています。

南千住駅前の松尾芭蕉像

諏訪台の景色

■3明治時代~戦前の荒川区

江戸幕府が終わり、明治政府が誕生すると、荒川区はそれまでの「北豊島郡」から、「東京府」へと編入されます。この頃から、名実ともに荒川区は「郊外」から「都市」へと、急速な発展を遂げていきます。

その先駆けとなったのは、1879年、南千住6丁目に建設された官営羊毛工場「千住製絨所」でした。ここでは軍服や制服を製造し、富国強兵政策による大きな需要を支えました。南千住の橋場地区には「大日本紡績橋場工場」(現ユニチカ)、「鐘淵紡績南千住工場」(現カネボウ)が作られ、荒川区の繊維工業の町として発展を支えました。こちらの「千住製絨所」の敷地を取り囲んでいた煉瓦塀は、「旧千住製絨所煉瓦塀」として現存しており、荒川区登録有形文化財にもなっています。

その他にも「日本石油油槽所」、日本初の蒸気タービン火力発電所である「千住発電所」も置かれました。また、それより上流の荒川沿いには煉瓦に適した土が取れたことなどから、レンガ工場も複数ありました。

また、明治時代は鉄道開発の黎明期でもあり、1896年に開通した土浦線(常磐線)の南千住駅を皮切りに、新路線、新駅が誕生していきました。中でも、1905年に開業した日暮里駅の周辺には未開発地が広がっていたため、当時、浅草に集中していた繊維問屋が集団で移転し、新しい繊維問屋街を作っていきました。

現在、レトロな街並みで人気の三ノ輪の商店街も、もともとはこの頃、南千住で働く労働者のために造られた新しい繁華街でした。かつては「新開地」と呼ばれ、飲食店が多く並んでいました。

こうして、工場と工場労働者のにぎわいで栄えた荒川区でしたが、明治末期の1910年、荒川の氾濫による未曾有の大水害に見舞われ、川沿いの工場と街並みは大きな被害を受けました。これをきっかけに「荒川放水路」の開削事業が始まり、1924年に完成。増水時には、岩淵水門が閉じられ、地域を水害から守る役割を果たしています。

三ノ輪商店街

あらかわ遊園煉瓦塀

■4 戦後の荒川区

終戦後、各駅前には必需品を扱う「闇市」と呼ばれるマーケットが自然発生しました。荒川区でもっとも大きな闇市が立ったのは日暮里駅前で、周辺にはもともと製菓業者が多かったことから、闇市の中に駄菓子問屋街が生まれました。最盛期には160軒ほどの菓子問屋があったといいます。

日暮里の繊維問屋街も高度成長期に最盛期を迎え、両側約1キロにわたって、生地織物の店がズラリと並んでいました。しかし次第に縫製工場の海外移転が進むと需要が減り、個人販売が主軸になっていきました。昨今はデザイナー、クラフト作家、コスプレイヤーなどが多く訪れる街となっています。

また、日暮里駅は1978年の成田空港開設以来、観光客が電車を乗り換える「ハブ」として機能していましたが、2000年代ごろからは徒歩圏内の谷中、根津、千駄木が注目され、日暮里は「谷根千散策の起点」として、海外からの旅行者も多く降車する駅となっています。

荒川の産業構造も、戦争で大きく変わりました。荒川区にあった工場の多くは、軍需に関わる工場として戦後閉鎖されています。そのため、工場が多かった橋場(南千住)には広大な更地が生まれ、集合住宅を中心とした新しい街が計画的に整備されました。かつての工場地帯はいま、南千住を象徴する美しい住宅地となっています。

戦前までの荒川区の人口は工場地帯に偏っていましたが、戦後は一変して、「交通の要衝」に集まるようになりました。たとえば町屋駅の周辺は、1971年の千代田線開通以降、急速に住宅地化が進み、かつては木造住宅がひしめく街でしたが、今では近代的な街並みとなっています。日暮里も同様に、再開発により、駅前広場や歩行者デッキの整備や、商業施設や業務施設・公益施設が一体となった街区の誕生など、雰囲気が一変した街です。

各駅周辺で近代化が進むいっぽう、古いものを残す文化も荒川区には根付いています。各地で路面電車が廃止されていく中で、「都電荒川線」だけは沿線住民の強い要望で維持されてきました。現在は東京で唯一残る路面電車となっています。また、区営「あらかわ遊園」は2023年にリニューアルを終えて再オープンしましたが、安全性と快適性を高めながらも、古い遊具やレトロなたたずまいは上手に残されました。

1954年日暮里駅前問屋街(画像提供:荒川区)

谷中銀座(台東区)

■5今後の荒川区

荒川区はこれまで職住近接型の「下町」と言われてきましたが、近年の鉄道交通網の発展にともない、都内のあらゆる場所にアクセスしやすい、オフィスワーカーの住宅適地として注目されています。
その皮切りとなったのは南千住の開発でしたが、21世紀に入り、ふたたびマンションの建設ラッシュとなり、街の風景は一変しました。西日暮里駅前でも現在、マンション・商業施設・ホールが入る高層ビルの建設が進められており、2026年の竣工を予定しています。
荒川区はこの十数年で、「下町情緒あふれる街」から「都心に近く、暮らしやすい街」へと大変貌し、新たな価値を生み出し続けています。その結果2018年には地価上昇率が23区中1位、2023年の「東京都住宅地地価上昇率ランキング」でも日暮里のいくつかの地が上位にランクインなど、多くの地域で地価が大幅に上昇し、住まいの価値が高まっています。
しかしその一方で、行政や区民が「レトロさ」や「下町情緒」の価値や希少性をよく認識し、区のアピールポイントとしている点も見逃せません。「谷根千」が昨今注目されたように、荒川区も将来は、「レトロ」で魅了する観光地となることでしょう。

⻄⽇暮⾥駅前地区市街地再開発事業イメージパース(西日暮里駅前地区第一種市街地再開発事業HPより引用)

あらかわ遊園観覧車

■6 伝統・文化 ミニコラム「東京打刃物」

東京打刃物とは、その名前の通り「打つ」が工程に入っている、伝統的な鍛造法で造られた刃物。現代では多くが包丁やハサミなど、日常的な刃物として製品化されていますが、ルーツは日本刀の鍛造技術と同じものです。紅くなるまで加熱した刃物を台の上で打ち、ジュッと水で冷却する。時代劇に出てくるような工程が、今も実践されています。東京打刃物は主に荒川区、足立区、台東区で生産されており、都内の包丁専門店などで購入できます。

東京打刃物