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日本の伝統文化「着物」。その歴史と成り立ちについて

今や「KIMONO」の名称で世界中に認知されている着物。
漢字が表す通り、もともと着る物(衣服)全般を表す言葉でしたが、明治期に西洋の服、いわゆる「洋服」が伝わり、それまでの衣服を「着物」や「和服」という言葉が生まれたといわれています。
今回は、日本の伝統的な民族衣装である着物の歴史を紐解いてみましょう。

【縄文時代】(紀元前約1万8000年頃~紀元前300年頃)

時代に合わせて変化を繰り返してきた着物。縄文時代における着物は、防寒や外敵から身を守るためのものでした。
そのため装飾はなく、狩猟で手に入れた獣の皮や羽毛、木の皮などをまとうだけの簡素なものだったと考えられています。

やがて田畑で植物を育てるようになると、麻などの繊維が生まれ、糸を紡ぎ、布を織る技術も生まれたと考えられています。

【弥生時代】(紀元前300年~西暦300年頃)

中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」によると、女性は布の中心に開けた穴から頭を通して着る「貫頭衣(かんとうい)」、男性は一枚の布を体に巻き付ける「袈裟衣(けさい)」を身にまとっていたと記述されています。
これが、現在の着物の原点だといわれています。

【古墳時代】(西暦250~538年頃)

この頃になると 中国など大陸の影響を受け、着物の形は大きく変化しています。
男性は「衣(きぬ)」と呼ばれる上衣と、ズボンのように2つに分かれた下衣「衣袴(きぬばかま)」、女性は上衣とロングスカートのような下衣「衣裳(きぬも)」をまとっていました。
現在は着物の前合わせは「右前」が基本ですが、遺跡からの出土品により、男女共に「左前」で着用していたことがわかっています。

【飛鳥・奈良時代】(西暦592~794年頃)

聖徳太子によって「冠位十二階」が制定されると、支配級と庶民とで衣服に大きな差が生まれます。
この頃から絹が着物や小物類に用いられるようになりました。支配階級の人々は冠位によって身に着ける冠と衣服の色が分けられました。
さらに、奈良時代には位によって公服として服装を礼服(らいふく)、朝服(ちょうふく)、制服(せいふく)の3種が定められました。そして、719年に発布されたの「衣服令(えぶくりょう)」により、着物の前合わせが「右前」と定められます。

一方、庶民が身にまとう衣服にはほとんど変化がなく、鮮やかな色を身につけることも許されていませんでした。

【平安時代】(西暦794~1180年頃)

平安時代に入り、遣唐使が廃止されたことで、次第に着物は日本独自の変化を遂げます。
布地を直線に裁って縫い合わせる直線裁(ちょくせんだち)の技術が生まれ、気候に合わせて重ね着をする、素材を変えるなどの工夫が凝らされるようになります。

公家の男性は朝服から束帯(そくたい)へ、女子は唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく)や女房装束(にょうぼうしょうぞく)とよばれる晴装束(はれしょうぞく)をまとうようになりました。
幾枚もの着物を重ね着することから「十二単(じゅうにひとえ)」という言葉が生まれます。

束帯、唐衣裳装束ともに袖部分は袖口の下を縫わない「大袖(おおそで)」の下に、筒袖(つつそで)の「小袖(こそで)」を身に着けていました。この小袖が現在の着物の原型と考えられています。
一方、庶民はといえば、男性は「直垂(ひたたれ)」と呼ばれる上衣と「小袴(こばかま)」と呼ばれる裾が絞られた袴を身に着けていました。女性は小袖の上に、腰から下に着けるエプロンのような「褶(しびら)」を身に着けていました。

【鎌倉・室町時代】(1180~1568年頃)

鎌倉・室町時代に入ると、着物は簡素化され、実用性を重視したものへと変化します。
先述の直垂が見直され、下級武士から上級武士へと広がり、武士の正式な着物として定着していきました。

女性はそれまで下着として着用していた小袖を表着としても着用するようになったほか、小袖の上にプリーツスカート状の「裳袴(もばかま)」を穿いたりもしていたようです。
この「小袖+裳袴」は、現在も卒業式などのシーンでよく目にするスタイルです。
「戦国時代」とも呼ばれる室町時代の後半には綿花の栽培がはじまり、絹よりも丈夫で、保温性や保水性に優れた綿素材が作られるようになります。

【江戸時代】(西暦1603年~1868年)

社会的に勢力を増し、町人文化が一気に栄えた時代でもあります。
粗末な素材や色しか身に着けることを許されていなかった庶民たちも、おしゃれを楽しむために工夫を凝らしていました。なかでも女性が楽しんでいたのが、身分に関係なく着けられる櫛やかんざしといった小物類。
時代劇の中にはよく、武士などが江戸みやげとして串やかんざしを買い求めるシーンが描かれています。

裃(かみしも)

串やかんざし

【明治から現在】(1868年~)

明治維新以降、開国によってさまざまな西洋の文化が伝わり、生活様式や服装に洋風スタイルが入り込みます。
中には、着物に西洋のレースを組み合わせたり、洋服の上に羽織をまとったりといった和洋折衷の着こなしを楽しむ人も。
西洋化を進めたい政府は、明治11年に官僚や軍人に対しては洋装を正装と定めました。
一方、庶民に対しては、着物を着る際は家紋を入れた「紋付(もんつき)」を正装と定めたことで、現在も改まった場では男女ともに正装として紋付を着用するのが一般的です。



その後、2度の大きな戦争により、着物文化は下火になりましたが、伝統行事やハレの日には着物を着る文化が根強く残りました。現在では、日常生活の中で着物を着る機会は減り、結婚式やお葬式をはじめとする特別なセレモニー、フォーマルな場での礼服として用いられることがほとんどです。

お正月や成人式、七五三、入学式、卒業式などお祝いの場の晴れ着として用いられるほか、お茶やお花、日本舞踊、歌舞伎などの観劇に身に着ける習慣もあります。

まとめ

ところで文中に着物を表す言葉「呉服(ごふく)」は、もともとは呉の国(現在の中国)から伝来したことに由来します。
江戸時代には絹の着物を「呉服」と呼び、絹織物に対して、綿や麻など太い繊維で織られた着物を「太物(ふともの)」と呼んでいました。

江戸時代、京都には近江、伊勢、美濃などから着物を扱う商人「呉服商」が流入しました。
特に幕府や天皇家、大名家などに出入りし、衣類を調達していた商人は「呉服所」と呼ばれ、江戸(東京)や上方(大阪)など各地に支店を設けるなど、着物の流通にも大きな役割を果たしました。この「呉服所」がのちに業態を変更したものが、現在の百貨店です。

国内でも少しずつ、その魅力が再認識されている着物。
最近では、着付け付きレンタルを行っている工房も多く、初めての人でも気軽に着物を着る機会が増えています。特別な日のお出かけに、着物を着てみてはいかがでしょうか。